無門関第三十二則「外道問佛」


 無門関第三十二則「外道問佛」について、綴ります。
 公案の現代語訳は、こちら。

 何かの教えを心から信じる人は、世の中の人を「信者」と「信者じゃない人」に分けて考える癖があるんでしょうかね。
 ここでいう「外道」とは、異教徒のことを指すようなのですが、違う教えを信じているというだけで「道から外れた者」と呼ぶのですから、随分だなあという気が少しばかりします。
 仏教に限らず、キリスト教も、イスラム教も、その他の宗教も、みんな多かれ少なかれそういう傾向がある。
 そこからすると、日本の神道のおおらかさは奇跡的だなと感じます。
 それはともかく。

「言葉で言えず、沈黙でもないもの。これを教えて欲しい」
 と、異教徒がお釈迦様に尋ねた。
 世尊というのは、お釈迦様の尊称のひとつで、「最も尊い福徳ある者」というような意味らしいです。
 お釈迦様は請われれば誰にでも教えた人で、その相手は異教徒も例外ではありません。
 で、お釈迦様はそう訊かれて、居住まいを正し、じっと座り、おそらくは、まっすぐ異教徒を見ていた。

 これを見て、異教徒は悟った。まずはそういう流れです。

 先にも述べたとおり、大抵の宗教団体というのは、異教にはそこそこ厳しい態度をとるのが普通です。
「その考え方は間違いだ。うちが正しい」
「そんな教えを信じているなんて、何て愚かなんだろう」
 あちこちで呟かれ叫ばれ、時には戦の動機にすらなった思考回路。
 今回の異教徒も、おそらく今までは、こういう対応を、してきたし、されてきたのでしょう。

「私に訊きたいことがあるのなら、訊ねにおいで。何でも教えるよ」という、お釈迦様みたいな対応をする人は、少なくとも昔は、極めて少数派だったはずなのです。

 自分のような異教徒を前にして、居住まいを正し、真っ直ぐに座り、見つめる。
 そこには、排他的な敵意も冷たい空気も、信者に転向させようとするおもねりも押しつけがましさも強引さも、一切無く、「知りたがっていることを教えよう」という温かさだけがあったのでしょう。
 確かにお釈迦様は一言も発していません。言葉は使われてない。
 けれどそこには、確かに、異教徒に伝わるものがあったのだと思います。

 それを異教徒は「慈悲」と呼んだ。
 そして、これこそが、言葉では言い尽くせず、しかし沈黙でもないものだと、心底感じて、悟ったのだろうと思います。
 仏教徒はこのエピソードを、「お釈迦様の教えの内容の素晴らしさに感銘をうけ、悟りに至ったのだ」と解釈するのでしょうが、おそらくはそれだけに留まらないものが少なからずあったからこその結果だろうと、私は解釈しています。

 でも、お釈迦様にとっては、この対応は別に特別なことではありません。
 教えてくださいとやってきた人に、さてと居住まいを正し、ただ自分の在り方を見せた。言ってみればそれだけのことです。
 それを見て、異教徒が自分で気づいた。そういうことです。
 明上座に「特別な教えを隠して伝えたわけではないよ」と言った六祖のエピソード、あれと似たようなことなのかもしれないです。

 この一連のやり取りを見て、阿難がお釈迦様に問います。
「あの異教徒、何をどう悟ったというんですかね」
 道から外れてる者なのに、という意識が多少ありそうな感じの物言いにも聞こえます。羨望、嫉妬、そういうものも無いとは言えないのでしょう。
 ある意味、とても人間くさい反応だとも思います。

 で、それに対するお釈迦様の返答が「良い馬は、鞭を実際に打たれずとも、その影を見ただけで、走り出せるものなのだ」です。
 いろいろな意味で、絶妙な答え方だなと感じます。
 お釈迦様優しいねぇ。

 今回、阿難と異教徒を並べた場合、異教徒の方がリード、という状況なのだと思いますけど、「どのくらい差があるか」と問われても、その問い自体には、さほどの意味があるとは私には思えません。
 異教徒なら、歩いている道は完全に別のルートですしね。
 剣の上を行くのか、氷の上を行くのか。道はひとつじゃないです。
 どちらを行くにしても、足は傷だらけになるだろうし、苦難の道のりであるのに大差はないのでしょうけど、いずれにしろ、悟るときは一足飛びにスパッと悟るということがありうる以上は、その途中経過がどうであるか、その差がどうなのかは、そこまで大した問題じゃないと私は思うのです。

 というわけで、「どのくらい差があるか言ってみろ」の私の答えは、「そんなことはどうでもいい」です。
 そもそも、自分が悟りに至るための修行って、他人と比較して優劣を競う類いのことでは、ないんじゃないですかね。

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