宮部みゆき『ペテロの葬列』読後雑感

 宮部みゆきは、人物の内面描写に定評のある作家で、私の大好きな作家のうちの一人です。
 代表作を問われたならば、今なら「三島屋シリーズ」が真っ先に上がるでしょうか。20年程前に書かれた『模倣犯』も評価の高い作品です(映画は酷評されましたが、それは原作のせいではありません)。
 今回俎上にあげる『ペテロの葬列』は今から10年近く前の作品です。ドラマ化もされているそうですが、そちらは私は見ていません。杉村三郎という男性を主人公にした作品群の一つですが、その中でもこの『ペテロの葬列』は、いろんな面から賛否両論ある作品です。
 いまさらではありますが、読後の感想をとりとめなく綴ります。
 ネタバレは、まあまああります。


■全体の印象(ここまでは詳細なネタバレはありません)

 私の本作品の読後の第一印象は「登場人物がほぼ全員、自分に素直に行動した結果、何かを決定的に間違えている」でした。

 この作品には老若男女、職業も経済状況も様々、実に多様な属性の人々が登場します。
 彼らは、普段、穏やかな日常を過ごしていますが、ときには非日常的な状況に否応なく放り込まれます。
 このとき彼らは、日常であれ非日常であれ、それぞれが、自分の感情や、価値観にそって行動しようとしますが、その結果、他の誰かを傷つけてしまいます。
 その行動の仕方も、その結果の他者への傷つけ方も、また様々です。

 そして、これらのほぼすべてが、作中では断罪されません。
 登場人物が「自分はこれを悪だと思う」「この人を悪人だと思う」と表明するシーンはいくつも出てきますが、同時に、これらを庇う人も登場します。
 また、ほぼ全ての登場人物が、「他者の『罪』」に関しては比較的敏感ですが、「自分がやらかす『罪』」に関しては比較的鈍感です。
 これもまた、ほぼ全員、例外がありません。

 そして、地の文で作者がいわゆる「これは悪である」と演説をするような、そんな記述は出てきません。(語り手の立場である杉村三郎は、作者の代弁者という描かれ方はされていません)
 最初から最後まで、ただ、「この人物はこう思った」「この人物はこういうことをした」という描写のされ方です。

 その結果、本作品を読んだ読者は、思い思いに、「この登場人物は好き」「この登場人物はひどい」という感想を持つことになります。
 誰をいちばん許せないと思うかは、読む人によって、読む時期によって、全く違ってくるだろうと思います。
「読者の鏡」という性質をもつ。そんな印象です。
 正直に言うと、読後感は全くさわやかではありません。
 非常に重く苦いものが残ります。
 私は、それでも「読んでよかった」と思いましたが、小説に「読んですっきり」「泣いてすっきり」「元気をもらえた」を求める人には、あまりお勧めできません。


■菜穂子をかばってみる

 現在、登場人物の中でも、ぶっちぎりで読者から責められまくっているのが、杉村三郎の妻だった菜穂子だと思います。
「自分の夫が大変な目に遭ったというのに、それを支えるどころか不倫をして、しかもそれを開き直った」という、平成令和の価値観では非常にわかりやすい「罪」を犯しているからだと思いますが、菜穂子だけが責められっぱなしというのも少々可哀想なので、少しだけ庇ってみることにします。

 菜穂子は、財界の大物の外腹の娘です。
 ということは、そもそも、菜穂子自身が「不倫」の結果、生まれてきた人間だ、ということです。
 菜穂子にとっては、不倫を否定することは、自分自身を否定することに繋がります。

 菜穂子は、実母の生前は実母と二人、死後は父親の邸宅で、父親の庇護を受けて屈託なく成長します。財は与えられても権力は与えられずに育った結果、本妻とその息子からも、一族からも、菜穂子は比較的憎まれずに暮らし、後に「父親宅で暮らした日々は楽しいことも多かった」と振り返りさえしています。

 つまり、菜穂子にとって、より重要なのは「倫理」よりも「愛情」だったのだろうと思います。
 もちろん、一般的な価値観として「不倫はよくない」「された側は傷つく」くらいのことは理解はしているでしょうが、「だから絶対に許されることではない」と考える人々との間には、おそらくかなりの温度差があるはずです。

 なので、「私が彼と寝たのは、あなたとの結婚がうまくいってなかったせい」と菜穂子が主張するのは、少なくとも菜穂子にとっては、「ごまかし」でも「自己保身」でもなく「精一杯の誠実な心情説明」であった可能性が非常に高いです。
 菜穂子にとって重要なものは、倫理よりも愛情だからです。
 経済力に関しては、おそらく菜穂子は「ある」「ない」を考慮すること自体が不可能でしょう。金に困るという経験を一度たりともしたことがないためです。喘息持ちではない人が住宅地を選ぶ際「空気が綺麗なところ」を条件に入れることがないのと、多分少し似ています。

 菜穂子にとっては、橋本は「橋本真左彦」ではないんです。
 自分に、経済的な、社会的な見返りを求めない(ように思える)男。
 菜穂子にとっての橋本は「独身時代の杉村三郎」なんです。
 だから「楽しかった」けれど、橋本を愛しているかは「わからない」。
 橋本真左彦と向き合っていたわけではないからです。
 逆にもし「杉村を愛しているか」と誰かに問われたならば、菜穂子は「愛している」と答えたでしょう。
 非常に身勝手な感情だとは思いますが、菜穂子にとってはさほどの矛盾はないのだろうと思います。

 実際、菜穂子は、世間知らずで身勝手だと、私も思います。
 何じゃあの告白と謝罪の仕方はと、正直なところ思いました。
 しかし、菜穂子は「不倫をした」ことには謝罪はしませんが、「杉村を傷つけた」ことには、菜穂子なりに謝罪をしています。
 不倫を告白する際、極度に緊張もしています。

 つまり、菜穂子には菜穂子なりの罪の意識はあるのです。
 価値観が、世間一般的なものとはズレているせいで、罪の意識が薄そうに見えるだけです。
 そのズレは、特殊な出生と、特殊な生育環境によって作られたものです。
 言ってみれば、不可抗力です。

 極端なことをいうと、ある時点で杉村が「僕は君のお義父さんではない」というスタンスを明確にとり、「贅沢はさせられないが、妻として一緒に苦労をしてもらいたい」と菜穂子に、そして今田嘉親に要求できていれば、菜穂子は後に「庶民の生活に耐えられない結果の離婚」は選択したかもしれませんが、「愛する伴侶が失われる錯覚を埋めるための不倫」は選択しなかった可能性もある、と個人的には感じています。

「庶民の『苦労』を舐めすぎだろ」という話でもあるんですけど、お嬢様育ちというのは、そういうもんですから。
 昔の日本人は子供の頃「アフリカには、ごはんを食べられない子供たちがたくさんいます」と言われながら大人になりました。
 しかしそれにより「ボクも質素かつ少量の食事を残さず食べるようにしよう」と思った人よりは「アフリカはアフリカ。ボクはおいしいご飯をお腹いっぱい食べたい」と思った人の方が多いんじゃないかと思います。
 でなければ、現代の飽食ニッポンの説明がつかない。そういうものです。

 そういう環境で成長したら、そういう人間になるのです。
 それが「罪」だというのなら、人間は例外なく罪人です。


■杉村を責めてみる

 杉村は、一見、「いいひと」に見えます。
 何故いい人に見えるのか。
 杉村は、相手の立場と価値観と、それによりなされた言動や行動を、否定せずに受け止める傾向があるからです。

 杉村も、ときには、自分とはまるで違う価値観の人間と出会い関わることもあります。
 普通の人なら、こういう状況に置かれたら、大抵は、恐怖や怒り、その他、諸々の負の感情を抱きます。
 のみならず、ときにはそれらを表明します。
 自分を守るために。
 しかし、杉村はそうではありません。
 どんな人相手でも、できるだけ理性的であろうとします。
 もちろん、どうしてもそうできなくなったとき、「皮肉」を言うこともありますが、杉村が皮肉と認識している自身の言動は、私のような根性悪からすると、まるっきり手ぬるいです。事実、言われた相手は、全く堪えていないことがほとんどです。
 杉村も、ときには傷つきますが、傷つけてきた相手を憎み続けることはほとんどなさそうです。

 よく言えば、優しい。理性的。
 悪く言えば、自分が希薄。

 こういう、「何かことが起ったとき、相手に耐えさせるより、自分が耐える方が楽」という、自身が希薄なタイプは、カリスマじみた光を発する人間に、吸い寄せられ、半ば盲目的に惹かれることが、よくあります。
 そして、そのことに気づかない。
 少なくとも「自分は盲目ではない」と思い、「自分でよかれと思い、主体的に選んでいる」と思ってる。

 その結果、「被害者が、知らず知らず、加害者になっている」というケースもあるわけですが、この場合、「加害者となった被害者は、自分の加害に最後まで気づかない」ということも、また多々あるわけです。
 気づかないどころか、言われてなお「自分は加害者ではない」と思ってしまうケースすらある。

 その「害」には、明らかに法に触れるわかりやすいものもあれば、被害者の立場に立たない限り実感できないものもあります。
 で、実は、杉村も、やっぱり例外ではなくて、杉村の場合は、ここでいうと後者だったんだろう、と私は思っているのです。

 杉村は、一見いい人に見えます。
 そして、全てを俯瞰でみられる読者の立場からすれば、杉村は精一杯頑張っていたということもわかります。
 しかし、菜穂子の立場に実際に置かれたら、「こりゃ菜穂子がつらがるのも、わからんじゃないなあ」と思う人も、結構いるんじゃないかという気は、ちょっとするのです。

 杉村は、いろんなものを譲歩します。
 杉村は、結婚する際、それまで持っていたもののほとんどを捨てる選択をしました。
 妻には、何一つ捨てさせないままです。
 いろんなものを、妻のために譲歩してくれているように、思えます。
 その通りなのだろうとも思います。

 しかし、実際のところは、よくよく観察してみると、「本当に杉村が望むことは、自分ひとりで勝手に結論を出してしまう」ということも、結構あります。
 その最たるものが「今の職場を辞職する」という結論ををひとりで出してしまったことです。
 これ、菜穂子にとっては、不安を伴う出来事だった気がするのです。

 今の職場に就職するのは、菜穂子との結婚における義父の交換条件のひとつでした。
 それを杉村は受諾します。そして10年もの間、そのまま勤めています。
 その職場を、やめたいと思った。
 思うこと自体はまだいい。人間だからね。百歩譲って、辞表を用意してしまうところまではいいとしましょう。
 問題なのは、それを出す前に、妻である菜穂子に相談しなかったことです。
「結婚」に対する「交換条件」だと、納得していたはずの事柄ですよ。
 これ、妻側の立場で、不安も怒りも悲しみも感じずにすむ人間が、この世にどのくらいいるんでしょうか。

 杉村は、誰にも言わずに書き上げた辞表を、即座に義父に渡しに行きます。
 義父がその辞表を一時預かり、「菜穂子に話せ」と命じたから、杉村は妻に一連の経過を話しますが、もしも義父がそのままその辞表を受け取っていたとしたら、杉村は妻に対して、完全に全てを事後承諾させるつもりだった、ということになります。

 このことに限らず、杉村は、常にまずは「妻の意向」ではなく「義父の意向」を推し量ろうとする癖がついています。
 何か問題が起ると、その解決にあたり、杉村が相談したいと思い、意見を聞きたいと思うのは、常に妻ではなく、義父なのです。

 杉村は、妻のことを、「守らなければならない存在」だと思っています。
 過去のいくつかの事情により、それは、無理のないことではあります。
 妻を守れる男になるために、その妻をより大きな力とカリスマ性で守ってきた義父のようになりたいと、敬慕するようになるのも、無理のないことだったのかもしれません。

 しかし、経過は随時話して聞かせても、困難が起ったら妻以外の人間と協力し合い、妻には一切寄りかかろうとせず、弱音をはかず、弱音を吐けないことへの愚痴も話せず、安らぎだけを与えようとする杉村の守り方は、「対等なパートナーを守る方法」ではないように感じるのです。
 それは、「無力な娘を守る方法」です。

 本当は、父親の守り方と、夫の守り方は、違う形であるべきなのです。

 杉村には、最後まで気づけなかったのではないかと思います。
 自分が妻と、いつしか「一般庶民の男と上流出身の奥様」か「守護者と無力な娘」という関係性しか作れなくなっていたことを。
 それは、義父である今田嘉親の強い影響のためであることを。
 その影響下に、いつしか自分から望んで入っていたことを。

 義父という偉大なキリストに帰依するペテロと化していたことを。

 杉村が、離婚に応じたのは、「自分にも至らない部分はあった」と思っているからではないと思うのです。
 あれはただきっと、「妻が離婚を望んでいるということを受け止めた」にすぎない。
 杉村は、「自分を犠牲にすることを厭わない『やさしい』ひと」だから。
 そんな気がするのです。

「おまえのいちばん大切な存在に害が及ぶ」と脅迫されたとき、真っ先に杉村の脳裏に浮かんだ存在は、妻ではなく、義父でした。
 そして、そのことに自分自身驚くこともなかった。
 この時点で、菜穂子に不倫の罪があろうとなかろうと、杉村の夫婦関係は健全なものではなく、その原因は、杉村自身にもあったと、私は思うのです。


■誰がいちばん嫌いか

 とりあえず、杉村と菜穂子の二人に関していろいろ綴りましたが、この小説には、わかりやすい善人はごく少数しかでてきません。みな、どこかしら何かがひっかかる。そうでない人は端役含めて2~3人くらいしかいません。
 なので、「誰がいちばんきらいですか」と問われたら、非常に難しいんですが、強いて選ぶなら、田中かな。
 私は、あの人が、いちばん嫌いです。
 何がと問われたら、意外と説明に困るんですが。
 第一印象が最悪だったから余計にそう思うんでしょうか。

「自分が他人にかける迷惑は避けられない不可抗力」
「他人が自分にかける迷惑は許してはならない罪悪」
「世界の中心も、価値観の中心も、つねに自分」
「自分のプライドが最優先事項」
「他人にも他人のだいじなものがあると、想像すらできない」
 こういうところが、どうにも好きになれない。
 柄も悪いしね。
 他人の呼び名は例えば「小僧」「ネエちゃん」「じいさん」。
 他人を尊重し敬意を払ったら自分が死ぬとでも思っていそうなタイプ。
 嫌いです、こういうやつは。

 この小説、「誰がいちばん嫌いか」「その理由は何か」を語らせると、それが、半ばその人自身を語ることになる、という構造になっているような気もします。
「何に怒りや嫌悪を感じるか」は、その人自身の重要なファクターだから。

 体力気力時間が揃ったら、是非お読みください。
 あなたは、誰がいちばん嫌いですか?
 誰にいちばん、自分が近いような気がしますか?
 そしてあなたは、嫌いな誰かを、誰かに近い自分を、許せますか?

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