公案「隻手音声」考察



■まえがき

「隻手音声」について、あれこれ考えます。
 公案の具体的な中身については、こちらを参照しました。

 この公案は、江戸時代の僧侶、臨済宗の中興の祖ともいわれる、白隠慧鶴が考案したものだそうで、白隠はこれを、「狗子仏性」に替えうるものと位置付けてもいたらしいです。
「こっちの門のほうがくぐり易いと思うよ」と、白隠は思ったということなんでしょう。
 無門を門とする以上は、これもまた立派な門のひとつ。
 こういう、ある種の「門のリフォーム」もありかと思います。
 取り組む人によって、好みに合う合わないはあるかもしれませんけど。

 ということで、「うむ、通ってよし」となるかどうかはわかりませんが、というより、「門に落書きして逃げようとする悪ガキはお前か!」と怒られることになりそうな気もしますが、やってみます。
 まずは、基本の公案から。


■片手だとどんな音がでるか?

「両手でたたくと音が出る。
 では、片手だとどんな音がでるか?」
 これが、基本のお題です。

 これ、「両手で叩くと音が出る」と最初に前置きされることによって、難解になってるよなぁ、と思います。
 この前置きで「手の音は、ぱぁんと叩いた時に出る音だ」と刷り込まれてしまう。
 その刷り込みによって、「片手じゃ、音、出せないでしょ。無理無理無理」と思わされることになるんだと思うのです。
 必要な前置きではあるんですけどね。
 縛りから脱するためには、まず縛りそのものを認識する必要があるので。

 だから、その、最初の刷り込みの縛りを脱することができない最初のうちは、「自分の太腿なんかを叩いてみる」という考えがまず浮かびました。
 あるいは、禅っぽい振る舞いとはこういう感じだろみたいな先入観が入った人なら「相手の横っ面をいきなり叩く」みたいな行動にでるんじゃなかろうか、という気もします。
 でもこれらは、いずれも「片手の音」とは言えないものだと感じます。
 これらは「片手と他の何かをぶつけ合わせて生み出した音」なので、いわば「両手の音」の亜種でしかない。

 これらと「片手の音」は、根底がかなり違うものだという気がするのです。

 音というのは、何らかの物質が振動を起こしたときに、その振動が空気を波のように伝っていくことにより生じます。…だと思うんですが、物理は苦手です。嘘書いてたらごめんなさい。
 なので、極端なことを言うと、物質の振動が起こっているのなら、音はそこにすでに生じている、とも言えなくもない、と思うわけです。
 その音が、人間の聴覚域に入るか入らないかは、別の問題。

 というわけで。
 例えば、右手を、手のひらでも腕でもいいんですが、そーっと右耳にあててみます。
 するとですね、それまで全く聴こえていなかった、かすかな「しゅー」という音が、聴こえる。当てているときだけ。
 もう少しぐっと押すように当てると、かすかな「ごー」という音が、聴こえる。

 強いて言うならば、これが「片手の音」なんじゃないか、と、私は思っているのです。

「そんなの、耳の中の音かもしれないじゃん」と思われることもあるかとは思うんですけどね。
「耳に片手を当てたら聴こえた音なんだから、片手の音って言ってもいいじゃないのさ」と、とりあえず今の私は思ってます。

 この「片手の音」に関して重要なのは、「両手を叩いた時の音」とは違って、「積極的な作為を施さなくても、すでに自然発生しているらしい音である」ということです。
 それが今回はたまたま、片手を耳にそっと当てたら聴こえたから、「片手の音」と名付けられただけで、その「音の出口」が、片手なのか、耳の奥なのか、どこなのか、は、比較的些末な問題だと、私は感じてます。
 結局は、「自分のどこか」から発していることには違いがないので。

 人が生きていれば、それだけでもう発している音。
 とてもかすかで、いともたやすくかき消されてしまいそうな音。
 それでいて、誰にも止めることはできない音。
 人の、命の音。
 これが、「片手の音」なのではないか。
 と、今のところ私は思っているのです。


■応用問題も、やってみる

 合格してるかどうかもわからないのに、勝手にやっちゃう。
 無門和尚は、門番のことなんか気にしなくていいって言ったもん。
 我田引水とはこのことですか。後日編集する可能性もあります。

・片手の音が聞こえたら、その証拠をだしてみよ
 →私がこうして在ることこそが証拠だ、とか言っていいですか。
  ダメなら、私の手をそっとお取りになるがよろしかろう。
  それで、聞こえるんじゃないですかね。
  片手の音を聞く耳のある人ならば。

・片手の音が聞こえたら、お前は仏になれたのか
 →仏になったかどうかが重要なら、好きなように判断してもらって結構。
  私は私です。

・死んだ後、どうすれば片手の音を聞くことができるか
 →死んだ後まで、片手の音を聞き続けたいと、囚われ続けるのは、
  ある意味、不健康だと思います。

・刀で手を斬りおとされても、片手の音は聞こえるのか
 →聞こうと思えば聞こえます。

・手が斬りおとされたのに、なぜ片手の音は聞こえるのか
 →片手の音は、片手からしか聴こえないわけではないからです。

・広大な宇宙を満たしているものをここにだしてみよ
 →きっとこの世界には、生きとし生けるものが発する、あらゆる音が、
  溢れているのでしょう。
  例えば私が発する声も、命が発する音の一つかと思います。
  わりと何でもいいんだと思います。

・生まれる前は片手の音を聞くことができるのか
 →何をもってして、生まれる前、生まれた後、とするのか。
  胎児は母の腹の中で、自らの音を聞くかもしれません。

・富士山の頂上での片手とはどういうものか
 →両手で打ち鳴らして麓に知らせずとも、
  富士の頂上に至った事実は損なわれるものではないです。
  そのうち別の誰かが聞きつけてくれるかもしれませんしね。

・富士山の頂上での片手に漢語の引用文をつけてみよ
 →漢語は書けません。しいて書くなら、
 「富士山頂にて鳴る片手 麓にてその音を見よ」
  こんな感じの文章を、誰かに漢語にしてもらいます。

・片手の音は手の表から聞こえたのか、それとも裏から聞こえたのか
 →どっちからだけってことはないんじゃないですかね。
  表も裏も、音の外側の肉と皮であることに違いはないわけで。
  強いて言えば、聞きたい所から聞こえる、という感じです。

・片手の音が聞こえたら、これからどうするのか
 →聞こえたから何がどうなるということもないんじゃないですか。
  これまでも、これからも、生きていきます。

・片手の音をわしにも聞かせてくれ
 →これを禅寺の坊様に問われたならば、
 「それならまず、お手本見せてくださいよ」とねだりたいところですが、
  多分渋面で怒られると思うので、ダメなら例えば、
 「自身が丸ごと片手であると知れ」とか言ったら
  ちょっとかっこいいですかね。
  それでも一つ指針をと求める人に対しては、
 「自分の片手に耳を澄まし、感じたままを受け止めろ」
  とか言うかなと思います。
  結局は「自分で何とか聞く耳を作ってください」という方向です。

・片手の音はどれくらい遠くまで聞こえるのか
 →それを聞く人次第じゃないですか。

・1ヶ月前の片手の音と、1ヶ月後の片手の音は、どう違うのか
 →過去の音と未来の音にこだわり比べることに、何の意味があるのか
  よくわかりません。
  どう違っていようと、その時その時でいい音がしてりゃ、
  それでいいんじゃないでしょうか。

・片手の音とはどんな音か
 →命が燃える音、とでも言いますか。

・片手が出す無音の音はどのような音か
 →もしかしたら、あらゆる音色の可能性を秘めた音かもしれません。
  そして、無音なればこそ、誰憚ることなく鳴り続けていられる。
  さらには、先ほども書きましたが、本来は誰にも消すことが出来ない、
  正確に言うと、誰も消そうとすべきではない、大切な音です。

・片手の境涯とはどういうものか
 →「照らされずとも、曇りなし」

 以上が、お題を読んだその日の私の答えです。
 時が経てば、何かまた違うものが、降りてくるかもしれませんが、今の私にはこれが精一杯です。

■あとがき

 この公案を作った白隠は、禅の修行のやりすぎで、禅病に随分苦しんだらしい。
 そこまでしないとダメなのか。厳しい世界です。

 私はさながら、誰かが潜り撮影してくれた海中の映像を、自ら潜ることなく、地上で、あるいは波打ち際でチャプチャプやりながら眺めるだけの、カナヅチのようなものです。
 これで、海を知っているなどとは、口が裂けても言えはしません。
 けれど、それでも、「海は恐ろしく、しかし美しい」と、思うことくらいは、許していただければと思います。

 その身一つで深海に潜り続ける禅僧の方々に、敬意を表して、今回の締めと致します。


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