無門関第四則「胡子無鬚」現代語訳

公案現代語訳

本則
 或庵和尚は言った。
「達磨には、どういうわけで、髭がないのだろう?」
(※原文では達磨をやや蔑称を用いて呼んでいます)

評唱
 参禅は実のあるものでなければならないし、悟りもまた、真の悟りでなくてはならない。
 この達磨は、実際に自分の目で一度しっかりと見て、初めて腑に落ちるものに違いないのだ。
 しかし、「自分の目で一度しっかりと見ろ」と説いても、その途端に二者になってしまう。


 未だ悟っていない人の前で、夢を説いてはいけない。
 達磨に髭がない。
 はっきりしているものに、はっきりしていないものが添えられる。


 全く、わからない。
 前回の倶胝竪指のわからなさなど、これに比べたら可愛いものでした。

 けれど、どれだけ難解で、全く歯が立たなそうでも、他人の「答え」を探し集めることは、しない方がいいのでしょう。
 第三則の小僧のような真似は、多分、すべきではない。
 しかし、わずか四則目で、もうこんな公案。
 実に厳しい。無門は鬼です。いやそんなことはないですね。

 無門関の公案には、番号が振ってあります。
 ならば、この順序で並べられていることにも、きっと意味はある。
 ランダムに並べてあるわけではないはずだと思うのです。
 もしかしたら、第一則から第三則までの内容が、ヒントや、鍵になり得るのかも知れない。
 そうであってほしいです。
 そうでもなきゃ、とっかかりすら掴めないんですもん。
 後は、日常のあれこれからヒントを探すくらいですかね。
 禅は日常から乖離させない方がいいのだろうと思うので。

 私は修行僧ではありませんが、それでも、単なる受け売りではない、自分なりの答えは、やっぱり欲しいです。
 気長に、気楽に考えます。

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