無門関第三十九則「雲門話堕」①
無門関第三十九則「雲門話堕」について、綴ります。
公案の現代語訳は、こちら。
前回の「牛過窓櫺」で、私は、「伝えたい仏法と、それを伝える僧侶の人間性は、しばしばセットになる」と書きました。
人間性の素晴らしい僧侶の教えは、すっと受け入れられやすくなる傾向にある。
逆に、人間性に難があると見なされた僧侶がいくら素晴らしい教えを伝えようとしても、多くの人には受け入れられにくいと。
では、人間性に難がある僧侶が、素晴らしい教えを語る、とはどういうことなのか。
人間性に難があるならば、その人間性によって生まれる思想や行動も、本来はやはり難がある、と予測されてしまうのが自然です。
しかし、その口は素晴らしい教えを語る。
そこには、無視できない程度の乖離がある、ということになります。
では、なぜその人は、その素晴らしい教えを語れるようになったのか。
自分の経験や体験、それに対して生じた感情、それを整理する際の思考、こういうものがベースになったのではなく、誰かが言っていたことを覚えたんでしょうね。
そして、覚えたことを、そのまま口にしている。
つまり、「受け売り」です。
ただし、ここで少々ややこしいのは、「誰かが言った素晴らしい教えを見聞きして覚えた」というのも、自身の一つの「経験」には違いないということです。
なので、何でもかんでも「パクリ引用は薄っぺらい」というわけではないと思うのです。
そういう意味では、雲門に関しても、ちょっとどうなのよと思う部分もあるんですが、それは後ほど触れます。
肝心なのは、何かの教えに触れたとき、「あー、わかるわー」と感じるか、「何言ってんのこの人? 意味わかんないんだけど」と感じるか、その違いなんじゃないですかね。
前者なら、「だってああいうケースやこういうケース、あるもんね」なんてことも瞬時に関連させて考えられるし、その上で他の人に自分が語れば、そのときそれはもう、その人自身の血の通った言葉として伝わっていくと思うのです。
しかし後者は。
「何言ってんの?」とよく解らないまま、「でも、言ってたことはなんか格好良かった。きっといいこと言ってんだと思う」と感じたまま丸呑みしようとすると、見聞きした言葉を「字面通りそのまま」語るしかなくなるので、その人自身の言葉のようには多分伝わりません。
その結果、前者の言葉には、その人自身の言葉のような説得力が生まれ、後者の言葉には、受け売り特有の薄っぺらさがつきまとう。
今回の公案は、教えを自分の血肉にすることの大切さと難しさを、教えてくれるような気がしています。
本則では、最初にある僧が雲門に「言った」ではなく「問うた」と書いてあります。
何かを訊ねたかったんだと思います。
一体、何を訊ねたかったんでしょうか。
それは、雲門が途中で僧の言葉を遮ったので、正確にはわかりません。
しかし、僧侶は「それは張拙の偈じゃないの?」と雲門に口を挟まれたときに「そうです」と答えました。
他人の見解の境地の句である、と認めてしまったわけですね。
つまり、この時点で、この問答の本質が、「僧侶と雲門による意義のある研究」ではなく、「他人の言葉を題材にした言葉遊び」に、堕落してしまったということになるのかもしれません。
だから、雲門は言った。
「そんな話は、つまらん」と。
なので、雲門が「張拙の句じゃないの?」と言ったとき、もしも僧侶が、例えば「もはや私の言葉です」と言い切れていたら、問答は続いていたかも知れないという気もしています。
勿論、そう思えないんだったら、言ってはダメです。
そもそも、最初に引用をせず、いきなり訊ねたいことをズバッと訊ねればよかった、という話でもありますけど。
発端の題材に関してすら「自分はよく解らないんですけど」という境地のままなら、そこからさらに考えを深めようとしても、解るわけないので、そこで雲門が話を打ち切ったのも、もっともな話。
ただし。
中身のない受け売りか、そこそこ血肉にしているかは、僧侶の答え方だけでは、厳密には決めきれないはずなのです。
元々張拙の句であることは事実なんだもん。
なので、この返答ひとつで「自分の中から出た言葉じゃなきゃつまらんだろ」と断じた雲門は、やっぱり少しだけ、危なっかしかったんじゃないのと、私は感じます。
僧侶が簡単に引き下がる程度に解ってない状態だったから結果オーライではあるんですけど、ねぇ。
お釈迦様や過去のえらい仏僧の残した用語や理論を一切使わずに説法できる坊さんが、どれだけいるってのよ。
この弟子僧をこの時点で「引用はダメ」と完全に断罪するのなら、公案の古典を引用して考えたり弟子を導いたりする禅僧は、全員アウトじゃないんですかね?
もう少しくらいは、聞いてあげても良かったんじゃないの、雲門。
全文機械的に引用しようとするなら、ふざけんなって言ってもいいと思うけど。
軽々しく口を開けば命を失う、などとここで言われているのは、弟子の僧だけじゃないんじゃないのかなあ。
勿論程度の差というのはあって、どっちがと比べたら、弟子の僧のほうがはるかにダメなんでしょうけどね。
次回、張拙の句について少々綴ります。
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