映画『2081』のプチ感想

 先日、「ハリソン・バージェロン」という短編小説の、日本語訳をあげました。
「平等」という、崇高な理念を実現するために、人間本来の在り方を、歪な方法でねじ曲げようとする近未来を描いた傑作。
 海外では有名な古典のようですが、日本ではまだまだ無名の作品です。
 よろしければ、お読み下さい。

 ところで、優れた文芸作品は、映像化されるのが常です。
 この作品も例に漏れず、今まで3回ほど映像化されています。
 その中で最も知られているのが、『2081』という映画かと思います。
 SF小説『1984』を意識したタイトルでしょうか、これはこれでアリ。

 この『2081』が、YouTubeに上がっていたので、視聴してみました。
 今回の記事は、その感想です。
 ネタバレがあるので、注意して下さい。

『2081』は比較的、原作に沿った作りになっていて、あらすじそのものが大きく変化しているわけではないようでした。
 その点では、まあまあ良心的だと、言おうと思えば言えなくもない。
 ただ、だからこそ、両者の違いの部分が、違和感に繋がるということはあるわけで。

 私は、英語のリスニングが苦手なので、日本語字幕がないと台詞の細かい意味はわかりません。
 なので、ざっくりした印象では、原作とニュアンスが違いそうだなと感じた部分もいくつかあったのですが、正確なところがわからない以上、今回はそのすべてには触れません。

 ただ一点だけ、触れます。

 作中で、ハリソンが、バレリーナの一人を、自分の伴侶として選ぶシーンがあります。
 原作では、ハリソンが、非常に繊細な手つきで、バレリーナの負荷装置を取り外してやることになっているのですが、映画では、バレリーナが自分で装置を外します。
 些細なシーンなのに、このシーンに、私は、違和感を覚えたのです。
 何なら、拒否反応、と言ってもいいくらいの。

 この映画は、アメリカの映画です。
 アメリカは、あらゆる差別意識に敏感な国です。
 だから、男女差別に関しても、おそらくとても敏感な国です。

 女性は、受動的に男性に依存せず、能動的に自分の行動を自分で決定して然るべきである。
 おそらくは、『2081』の制作者だけではなく、この映画を見るであろう現代のアメリカ人の多くが、そういう価値観を持っているのだろうと思います。
 そして、この考え方自体は、私も大いに賛同できます。
 なので、「ならば、このバレリーナも、ハリソンから装置を外してもらうのを待つのではなく、自分で装置を外して然るべきだ」という考えのもとに、そういう改変をしてしまうのも、ある意味では自然な流れだったのかもしれません。

 しかし。
「原作のこのシーンは、男女差別という観点からは相応しくないので、相応しい形に勝手に変える」ということは、原作で描かれている「人間の差異は、平等という観点からは相応しくないので、相応しい形に強引に変える」という世界と、本質的には大した違いがないように、私には思えるのです。

「こんな世界は恐ろしい」と言いながら、それと大差ない行動を、自身が全く無意識で行い、それを皆で、無意識に受け入れている。
 そんな構造を、この『2081』という映画の、このワンシーンに、私は感じたのだと思います。

 原作の改変のすべてが悪であると言っているのではないです。
 その辺は、やり方次第だろうとも思います。
 ただ今回は原作の題材が題材だけに、ひとツッコミさせてもらいました。

 理想と現実。その近づけ方。
 そして、自分の価値観を疑うことの困難さ。
 そんなことを、感じました。

 ついでに言うと、ハリソン。
 スタジオ乱入時には、ちゃんと鼻に、ピエロのような赤いゴムボールをつけてきて欲しかった。
 それを外して「うわあ何この人かっこいい」ってなるシーンなのに。
 最初からイケメン晒してどうすんの。
「僕はこんな格好悪いもんつけたくない」ってんなら、そいつはその時点で「モデル」ではあっても「俳優」ではない。
 役者としてのプロ意識は、正しく持っていただきたいものです。

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