無門関第十三則「徳山托鉢」③

 無門関第十三則「徳山托鉢」について。
 公案の現代語訳は、こちら。

 巖頭について、考えます。

 巖頭は、豪放磊落な感じに見えます。
 師匠である徳山のことも、ときにはボロクソに言います。
 実力もありそうな感じです。

 しかし、巖頭がこのときもし悟りに至っているのであれば、徳山に呼び出され、「儂をバカにしてるのか」と問われた際、もっと違う対応をしてたような気もするのです。
 例えば、二則では、百丈に自分の真意を見抜いてもらえなかったと思った黄檗が、師匠の百丈をいきなり張り倒しました。
 これと同じことを、巖頭がしたとは、ちょっと思えないのです。

 巖頭は、徳山から問われて「密に啓」しています。
 その台詞が「師匠なら、弟子の真意くらい、言われなくてもわかってくださいよ」だったとはとても思えないし、「いやいや、だって、師匠が末後の句を会してないの、事実っしょ」だったとは、もっと思えません。
 仮に、百歩譲って、巖頭がそんなことを言ったとしたら、徳山は絶対に安心なんかしなかったと思います。するようなら、そもそも呼び出してこんなことを訊きはしないでしょう。

 では、「巖頭は、徳山が悟りに至っていないのを見抜いていた。そして、徳山には言葉で丁寧に説明するのが適切な方法だと判断した。だからそうした」という仮説はどうでしょう。
 つまり、巖頭は、師匠を大悟させられるほどの悟りに至っていたけれど、それを黙っていただけだ、という仮説。
 一見筋が通っているように思えます。
 これなら、最後に巖頭が、徳山が大悟したと思い喜んだ、ということも理解の範疇となります

 しかし。
 もしそうなら、一つ矛盾が生じます。

 それは、「師匠である徳山を、たった一度の会談で大悟させられるほどの、悟りの境地に至っているはずの巖頭が、雪峰を大悟させることができていない」ということです。


 なぜ、師匠には通じたらしき巖頭の禅が、雪峰には通じなかったのか。
 こう考えると、巖頭の言動も「徳山によって引き出されたもの」と見えなくもないです。
 要するに。

 普段弟子をバシバシ棒で殴り倒している厳しい師匠が、オレにはあまりそういうことをしない。
 これは、きっと、オレが、他の弟子より、悟りの境地に近いということに違いない。
 オレは、自信を持っていいんだ。

 こんなふうに、徳山と接する日々の中で、思うようになっていった可能性もあるなとも思うのです。

 しかしそうなると、この自信は、「徳山に引き出された、幻想の自信」ということになります。
 徳山という保証人がいて初めて価値がつき、その力が発揮される。
 ならば、巖頭は、徳山から真に否定されることは、避けようとするでしょう。徳山から引き出し続けてもらわねば、それが崩れてしまう恐れがあるからです。

 だから、徳山に呼び出されたとき、黄檗のように師匠を張り倒したりは出来なかった。自分の真意を事細かに説明せずにいられなかった。
 また、自分の働きかけで変わった徳山を見たとき、手放しで褒めずにいられなかった。
 そういうことなんじゃないかと、感じるのです。


 徳山と巖頭。
 この二人だけが登場する話であれば、このような見え方はしなかったようにも思います。
 師匠にも遠慮せずズバズバと物を言う若き俊才。
 そんな弟子を、鷹揚に受け止め、悟りに導いたらしき、偉大な禅僧。
 そんな関係に見えたでしょう。

 しかし、雪峰という石が投げ込まれた途端、それが幻想だったことが露呈してしまうのです。
 仏道を諦めきれずに必死で悟りを求め続けている雪峰を、徳山も、巖頭も、この段階で大悟させることは出来ませんでした。
 この二人の禅風は、二人の間ではちゃんと成立しているように見えても、他に対しても機能する、応用の利く確かなものではなかった、ということになってしまうのです。

 無門が「巖頭も徳山も、同じ夢の中に居る」「同じ棚の操り人形である」と言ったのは、このことじゃないかと、私は感じています。

「時間という規律を、血肉とした」最初の句。
「自分の根幹となっていた程のこだわりを手放した」末後の句。
 しかし、そこに至ってすら、なお至れない境地がある。
 ならば、真の末後の句とは、何なのか。

 それを考え続けろと、多分無門は言っているのです。

 ところで。
 この数年後、巖頭は雪峰とともに行脚の旅に出て、その旅先で、雪峰の大悟に立ち会います。雪峰の大悟は巖頭との会話が切欠です。
 巖頭は結局、雪峰の大悟に大きく寄与しました。
 巖頭の悟りはハリボテではなかったということになりそうです。
 また、そんな巖頭のベースの形成に大きく関わった徳山もまた、愚僧と断じてはいけないのだと思います。

 人も物も、一面だけでは語れません。
 あんな見え方のことも、こんな見え方のこともある。
 人も物も、常に移り変わり変化するのですから、至極当然のことです。
「この人は、『こういう人』だ」という思い込みを外す。
 これもまた、「こだわりを捨てる」ことの一つの形なんでしょうね。

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