無門関第四十五則「他是阿誰」
無門関第四十五則「他是阿誰」について、綴ります。
公案の現代語訳は、こちら。
そもそも私、釈迦と弥勒、どちらがえらいのかもよく解っていませんでした。
お釈迦さまは元々人間。弥勒は最初から菩薩。
だからどちらかと言えば弥勒の方が偉そうな気がする、なんて勝手に漠然と思っていました。
その程度の状態で、ああだこうだと考え、気がついたら今回を含めてもう残りわずか四則。最後まで解らないままというのも何なので、ざっと調べてみました。
いわゆる仏さまランキングは、上から、如来、菩薩、明王、天部の順だそうです。
釈迦如来のほうが、弥勒菩薩や文殊菩薩より、上の身分でした。
なるほど、文殊が「恐れ多い」とへりくだるわけですね。
では、如来と菩薩、そこを分ける要素は何なのか。
それはズバリ「悟りを開いているかいないか」なのだそうです。
つまり、菩薩は「まだ悟りを開いていない」んです。
いや、びっくりしました。
弥勒も文殊も観音も、言ってみれば「修行中」なのだそうですよ。
お釈迦さまは悟りを開いたから、一足飛びに如来に昇進したということなのでしょう。
さて、本則。
「釈迦も弥勒も彼の下僕。さあ言え。彼とは誰か」
普通に考えたら、「森羅万象の理」「それを知ることができる悟りの境地」あたりではなかろうかと思います。
この2つは、少なくとも彼らにとっては、おそらく不可分のものだと思うので、並べてみました。
私も含め、ほとんどの人は、何を疑えても、自分の五感で感知したものだけは、なかなか疑うことができません。
「だって、この目で見たんだ」
「確かに聞いたもん」
「触ったらちゃんと感触があった」
自分が見たのは幻だったのだろうかなんて、思えません。
そして、誰かがそう言うのを聞いたら「ああそれなら、それは確かにそこにあったんだろうなあ」と、こちらも思ってしまうことが多い。
自分が体感したもののことだけは、他人から「そんなもの、ないよ」と言われても、「ないわけない!」と固く信じ抜くだろうと思うのですよ。
誰が何と言おうと、自分は、実際に触れたのだから、と。
修行僧に訪れる悟入体験は、それほど強烈なものなのでしょうね。
疑う余地が生まれないほどの実感を伴うのでしょう。
ただし。
森羅万象の理。
それを現出させた何ものか。
後者は他の宗教だと「創造主」だの「唯一神」だの言ったりしますね。
これらへの対応の仕方は、なかなか厄介なのです。
というわけで、頌について。
「彼の弓を引いてはいけない
彼の馬に乗ってはいけない」
正義は我にありと思った瞬間、人は驚くほど残酷になれるんですよね。
国も宗教も、余程ろくでもない教義を掲げる団体でなければ、大方の組織はだいたい殺生や傷害を禁じているものなんですけど、その教えを信じながら同時に「聖なる戦」なんてことを考え出したりする。
この行為は偉いお方が望んだんだ、この行為は正しいんだという理屈がついたら、自らを律していたタガがいきなり外れてしまうんです。
仏教だって例外ではないですよ。
自分の暴力性や低俗さを、森羅万象の創造主のせいにするというのは、少々品のない行為のように思います。
誤解して欲しくないんですが、私は、どんな目にあっても常に無抵抗のままでいるべきだと言っているのではありません。もちろん、心からそうしたい人は、人を巻き込まない形でそうしていいと思いますけど。
私が言いたいのは、自分の選択した行為については、それにまつわる責任を、ちゃんと自分で引き受ける、そういう覚悟を持つべきだということです。
聖なる弓だと言いながらではなく、自分の弓で射るべきなんです。
「彼の非を弁じてはいけない
彼のことを知ってはいけない」
いわゆる上位存在をなじりたくなるのは、大抵自分の人生や社会の在り方が上手く行っていないように思えるときなんですけど、ここで神仏を恨むことを覚えてしまうと、そこからもう一歩も動けなくなってしまうんじゃないかという気もするのです。
「こんなことになったのはお前のせいだ」と神仏をなじった瞬間、自分の人生が自分のものじゃなくなる、という感じもちょっとある。
「彼の非を弁じるな」というのは、彼の是を決して疑うなという思想統制的な意味ではなく、「自分の生きる活力を失わないための戒め」という印象が個人的にはあります。
「知ってはならない」も、盲目的に信じろという意味じゃなくて、「知ったら知ったことに囚われずにいることは困難だから、そうなることを避けろ」と言っているような印象を受けます。
そういう意味では、頌の後半部も、前半と似たような意味のことを言ってるように思えるんです。
悟りは目指せ。
しかし、そこで見たものとの距離感には、よくよく注意しろ。
そんなことが、この公案では書かれているような気がするのです。
ちなみに。『鉄鼠の檻』の作中にて。
「釈迦も弥勒も彼の下僕。さあ言え。彼とは誰か」
悩める僧侶からこう問われたとき、榎木津礼次郎は、間髪入れず、
「ぼくだ」
と答えました。
さすが榎木津。よく言えるなそんなこと。
でもこれ、案外悪くない答え方のような気もするんですよね。
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