無門関第一則「趙州狗子」
これから不定期に、無門関の公案について、あれこれ考えます。
京極夏彦の「鉄鼠の檻」を読んだ際、作中に登場した公案に興味を惹かれたのが切欠です。
つまり、私は禅宗の僧侶ではないので、自由にやります。
修行している人じゃなければ公案は触っちゃダメ、っていうのなら、そもそも公案集は門外不出になってなければダメでしょ。
岩波文庫から現代語訳の書籍が出ている時点で、素人でも自由に考えていいものなのだと、私は解釈しました。
ろくでもないことを書くかも知れませんが、怒らないでください。
公案の現代語訳は、こちら。
そもそも、大乗仏教のお坊さん達の間では「万物には仏性が『有る』」という考え方があるらしい。
ならばそれをそのまま素直に受け止めるのであれば、万物にあるというのなら、犬にだってあるだろ、となるんでしょうけど、禅宗はそれじゃダメなんでしょうね。どうしてダメなのかはわかりません。
禅宗はどうも「あらゆる既成概念を疑え」みたいな考え方が根底にあるような気がするので、「昔の偉いお坊さんが『有る』って言ってたからあるんだと思うよ」とでも答えようものなら、たちまちバカにされる、とか、そういう事情もあったのかもしれませんですね。
毒饅頭の問答を仕掛けてひっかかったらバカにするとか、それが坊主のやることかよと思ったりもしますが、「僧侶はすべからく人格者でなければならない」という考え方もそれはそれで乱暴な固定観念でしょうか。
で、「犬にも仏性はあるのか、ないのか」。
私思うんですけど。
そもそも、仏性って何なんですかね。
私は偉くもなんともないので、このお弟子さんにまず訊きたい。
「『仏性』って、何のことなんですか?」と。
質問に質問で返すなと怒られてでも訊きたい。
そこがまずわかってないと、そして共通概念として互いに持っていないと、有るか無いかなんて、そもそも訊いたってしょうがないからです。
きっとこのお弟子さんは「そりゃあ君、仏性といえば、仏としての本質のことじゃないか。そんなことも知らないのか。これだからモノを知らない凡愚は」などと言ってくるでしょうが、「仏としての本質って何なんですか?」とソクラテスばりにどこまでも食い下がったら、このお弟子さん、わりと早い段階で言葉に詰まっちゃうんじゃないのかなあ、という気がするんですよね。
ところで、このお弟子さんの質問を読んでると、「犬ころなんかには、仏性があるようには見えない」というニュアンスも透けて見えるんですけど、ということは、このお弟子さんは、仏性というものは、仏の道に邁進している自分たちのような高尚な者たちにしか備わらない、とでも思っているということですかね。
このお弟子さんにとって、仏性とは「高尚そうに見える特別な何か」のことなんだろうか。もしそうだとしたら、そういう考え方は、個人的にはあまり好きじゃないですね。
だいたい、このお弟子さん含めて回りが「この犬には、仏性がある」「いや、この犬には仏性はない」とあれこれ決めたところで、その犬自身は、何一つ変わらないでしょ。
「仏性はある」とお坊さんが決めたらいきなり犬の中に仏性とやらが生まれるんだろうか?
その後「やっぱり、ない」と判断されたら無くなってしまうんだろうか。
犬は犬でしょ。
目の前に、一本の丸太があるとします。
腕の良い仏師が丸太を見ると、「中に仏像が御座すので、これを掘り出したい」と思ったりするそうですが。
では、この丸太の中には、仏様が御座すのだろうか。
私なんかが幾ら見たって仏像は見えてきません。
山奥のじいさんがみたら「割って薪にでもすべぇ」と思うでしょう。
ならば、この丸太の中には、仏様は、やっぱりいないのだろうか。
モノの本質は、それを見る他者によって決定されるものなのだろうか?
そういうことではないんじゃないの、と、私は思うわけです。
犬が何かの行動をとる。これは「現象」です。
それを見て、誰かが「仏性がある」と思う。或いは「仏性がない」と思う。これは「見た人の解釈」です。
モノの本質は、現象を見た人の解釈なのだろうか?
解釈は、人の数だけあるのに。
私は、他人から「天然ボケ」とも「ツッコミのタイプ」とも「素直な人」とも「ひねくれた考え方の人」とも「優しい」とも「冷たい」とも「感情的」とも「理論的」とも言われたことがあります。
本当に、全部言われたことがあります。
ではこれがすべて、私の本質なのだろうか?
そう決めてしまっていいんだろうか?
私は「優しい」のだろうか。「優しくない」のだろうか。
そういうわけで、私は自己紹介が今でも非常に苦手です。
少なくとも、「本質」は、「解釈」ではない。ないはずだ。
現象は、出来るだけ現象のまま受け取るのがいい。
その現象が、その存在の奥深いところから発せられたものであればあるほど、そこに本質が見えるような気がする。気がするだけかもしれないけど。
その質問自体が無意味だ、とでもいうのか。
有ると言えるし、無いとも言えるし、有ると言えないし、無いとも言えない。
そういうことを、いろいろひっくるめて、「無」とこの和尚さんは答えたのではないかなあ、と、今の私はそんなふうに思ったりしてます。
あんまり小難しい用語を使うの、好きじゃないので、こんな感じになりました。
多分、この考えたことも、固定されたものじゃなくて、自分の状態によっていろいろ変化するんだろうなとも思うのです。
そして、それでもいいんじゃないかなあと。
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