無門関第十一則「州勘庵主」

  無門関第十一則「州勘庵主」について、綴ります。
 公案の現代語訳は、こちら。

「この話について、一言で言い表してみろ」と書いてあったので、やってみます。私なら。

「化学反応」
 あるいは。
「錬金術」
 あるいは。
「相互作用」

 このどれかを、そのときの気分で選びます。

 多分、この公案には、「これを表す一語はこれ」という用語があるんだろうとも思うんですが、私はそれを知りません。
 字面だけ知ったところで使いこなせるとも思えませんから、あえて調べないことにします。


 これ以上の補足説明をするのは、野暮でしょうけど、後で読み返したときに、このとき自分が何を考えていたのか解る程度には、書いておきます。

 趙州は、高僧です。
 だから、ほとんどの人は、趙州の評価をそのまま受け止めます。
「底が浅い人」「優れた人」というのがその人の本質だと思い込みます。
 そして、「自分の感想もこれと同じだ」と、認識しがちです。

 でも、本当はそうではないです。
 ここでの事実は、趙州が、あのとき、あの場所で、あの庵主と出会ったときに「底が浅い人だな」または「優れた人だな」と思った、ということです。

 つまり、この事実を構成する要素は、「庵主」だけではないのです。
「趙州」が「庵主」に「あのとき」「あの場所で」出会った。
 趙州も、時も、場所も、すべてが、要素になるのです。

 化学の話をします。
 石灰石と塩酸が出会うと、二酸化炭素が発生します。
 鉄と塩酸が出会うと、水素が発生します。

 塩酸は前者を「二酸化炭素を生む物」と評価します。
 そして後者を「水素を生む物」と評価します。

 しかし、酸素が鉄と出会っても、水素は生まれません。
 このとき、酸素が「鉄は水素を生まない物」と評価したら、それは『誤り』なのでしょうか? 「酸素に、鉄を見る眼がない」ということなのでしょうか?
 また、このとき鉄が水素を生まないのは、鉄の責任なのでしょうか?
 それとも、酸素の責任なのでしょうか?

 また、状況によっては、鉄は錆びるし、塩酸は劣化します。
 この場合、鉄と塩酸が同じように出会っても、同じような水素の発生の仕方には、ならないかもしれません。
 このとき、鉄や塩酸がもし自分の劣化に気づかなければ、「相手が悪くなった」と評価してしまうでしょう。
 これは、正しいのでしょうか?

 つまり、趙州の庵主に対する評価を、「本質そのものに対する不変の絶対評価」だと解釈すると、この話を全く理解出来なくなってしまうのです。

 趙州の同じ問いに対し、同じ答え方をした、前者の庵主と後者の庵主。
 彼らに対する趙州の反応は、真逆のものでした。
 けれど、これらの出来事は、どちらも「その瞬間、趙州との間で起ったもの」です。
 趙州もまた、「全く同じ趙州」ではなかったのかも知れないでしょう。
 ならば、趙州の反応が真逆であることは、二者の庵主の優劣を示しているとは限らないのです。(示す場合も多分あります)

 これがもし、趙州ではなく、無名の僧侶と庵主の間の話なら、「無名の僧侶がブレブレだったんじゃないの?」と考えるのはさほど難しいことではないと思います。
 しかし、趙州が高僧であるがために、「趙州はそんな『誤り』は犯さない」という錯覚に陥り、それが、問題を複雑にしている。

 けれど、この公案の状況は、趙州が聖人だろうが凡人だろうが、同じように起こりうることなのです。
 違う反応が生じることは必ずしも『誤り』ではないからです。

 また、二つの何かが出会った際、「見定める行為」は「常に高きが低きに対して行うもの」ではありません。
 趙州が庵主を見るとき、庵主も趙州を見ています。
 趙州に対する前者の庵主の評価と後者の庵主の評価も、違ったものであっても全く不思議はありません。そしてそれは、必ずしも『誤り』ではないのですから、この違いもまた、二者の優劣を示すとは限りません。(示す場合も多分あります)

 二者に優劣があった場合も、公案のような状況は起こり得ます。
 二者に優劣がなかった場合も、公案のような状況は起こり得ます。
 趙州の状態に大きな変化があった場合も、起こり得ます。
 趙州の状態に大きな変化がなかった場合も、起こり得ます。

 出会う両者がどうであるか、と同じくらい、出会い方も大切なのです。

 というわけで、この認識が一般的になったら、ある同じような人や物や現象に、異なる評価を下すとき、「お前あのとき、こう言ったじゃんか」という責められ方をすることを、不必要に怖れる必要がなくなります。
 とっても心が自由になります。
(※「誠実な評価や対応をしなくてもよい」という意味ではありません)

 また、同じものに対しての、偉い人の評価と、自分の評価が、全く真逆であっても、不必要に落ち込む必要がなくなります。
 とっても心が自由になります。
(※「どんな極端な考え方や行動をしても許される」という意味ではありません)

 この2つの認識は、ネットの発達により過去の言動がいつまでも残り続けるようになった現在、重要性がより増しているように思います。

 出会いは、一期一会の、錬金術なのです。

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