無門関第三十七則「庭前柏樹」

 無門関第三十七則「庭前柏樹」について、綴ります。
 公案の現代語訳は、こちら。

「なぜ達磨はインドから来たのか」
 この問い、前にも誰かが投げかけてましたよね。
 確か、口で木にぶら下がっている坊さんに対して、問うていた。
 何なんでしょう。どうせ今回も、歴史の雑学を尋ねているわけではないのでしょうし、これ、禅僧の間では、半ば慣用表現のようになっているフレーズなんでしょうか。

 これに対する趙州の答えは、
「庭先のビャクシンの木」
 です。
「この真意をズバリ言ってみろ」が、無門からの今回の課題です。

「どうして○○したの?」
 聞く方はわりと気軽に訊いてしまいがちです。
 そして、訊けば何らかの理由がちゃんと聞かせてもらえると思っている。
 結果には原因が、行動には動機が、常にわかりやすくセットになっていると、多分みんな思ってるんじゃないかと思うんですよ。

 でも、実際は、そうでもない場合も、少なからずあるんじゃないでしょうかね。
 どうしてそんなことをしたのか、自分でも上手く説明できない。
 サスペンスドラマなどでは、犯人が「こいつが憎かった」「だからこいつを殺した」とわかりやすく動機を語ってくれますが、実際はどうなんでしょうか。案外、事の真っ最中は無我夢中で、動機は後から形になる、ということも少なくはなさそうな気がします。

「どうしてこれを好きになったの?」
「どうしてこっちを選んだの?」
「どうしてあんなことを言ったの?」
「どうしてあんなことをしたの?」
 よくよく考えたら、こういう内容のほとんどは、「誰かから訊ねられて初めて考えようとする」ような気もするんですよね。
 瞬時に言語化できるか、じっくり時間をかけて言語にするかの違いがあるだけで。

「どうして達磨はインドから中国に来たの?」
 もし達磨当人に訊けば、もしかしたらいろいろ答えてもらえたかも知れません。答えてもらえなかったかも知れませんけど。
 けれど、それらはどれだけ言葉を尽くしても、結局は「あのときの自分はこうだったと思う」と思い出しながら、或いは想像しながら話す、ということです。
 だからもしかしたら、多分ほんの少しだけ、足りなさ、過剰さ、ズレのようなものもくっついてしまう。
 案外達磨も「よくわからない衝動に突き動かされて中国にやってきた」のかも知れません。だったらもう言語化はほぼ無理。
 ましてや我々は、達磨本人ではない、同時代を傍で生きたわけでもない、完全な他人なのです。ならば「どうして達磨は西からやってきたのか」を、我々は、推測はできても、正確に知ることはできません。
 知ることができるのは「達磨が西からきて禅を中国に伝えた」という事実だけです。

 庭先のビャクシンの木。
 ビャクシンという木は、つける葉の形が、各個体で微妙に異なる形になることがあるのだそうです。
 しかし、「どうしてこのビャクシンは、こんな形の葉をつけたのだろう」と疑問に思ったとしても、それをビャクシンに確認することは不可能です。精々「こういう原因によるんじゃないかな」と想像するくらいです。
 たとえビャクシンと会話が出来る状況であったとしても、「ねえねえ君はどうしてそんな形の葉をつけたの?」とビャクシンに訊ねたところで、わかりやすい説明は返ってこないだろうとも思うのです。
 土壌、気候、その他、いろんな要因が絡んだ結果、そういう形の葉がついた。
「どうしてだろうね。ボクはこういう形の葉っぱになっちゃった」くらいのことしか、ビャクシン本人には解らないのかも知れません。
 我々に解るのは、「ビャクシンは青々と葉を茂らせているなあ」ということだけです。

 人の意識は、大きなエネルギー源となり得ます。
 そういう意味では、大切なものです。
 しかし、人の意識がまだ及ばない何かも、ひとつの因となって物事に関わってくることがあるのです。
 自分には解ることもあれば解らないこともある。
 解ろうと解るまいと、ビャクシンは各々葉を茂らせ、達磨は西から訪れ、僧はそれを趙州に訊ね、趙州は教えようとし、私はこうしてとりとめもなく綴る。

 ならば、どうせなら、他の余計な事をごちゃごちゃ考えながらするよりは、それに没頭して夢中になってやるほうが、ずっといいんじゃないですかね。

 というわけで、本則について、ズバリ言い表そうとするならば。
「理屈は後からついてくる」
 こんなところでどうでしょうか。

 余談ですが、ビャクシンは、梨の木を病気にしてしまう菌をまき散らすことがあるので、現在、日本では、梨の生産が盛んな地域の自治体の多くは、ビャクシンの植樹を禁止しているようです。
 かつて禅寺を建立する際にはビャクシンをわざわざ庭に植えるなどということもよくあったそうですし、禅宗ではビャクシンをとても大切にあつかっているのでしょうが、それでも流石に梨農家の収入源を台無しにしてまで植えなければならない木じゃないでしょうし、そこは寺側がひくべきところなのでしょう。
 本則とは全く関係がありませんが「清浄なる寺に息づく木であってすら、他所の木を知らず知らず傷つけることがある。ましてや私のようなものなら」という戒めも、ついでに同時に受け止めておくのも、悪くはなかろうかと感じます。

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