その目で本当に桜を見ているか
2012年あたりから、桜シーズンを迎えるのがどうも憂鬱になった。スマートフォンが普及してきたためだと思う。
徒歩いくばくもかからない神田川沿い、春には満開の桜が空を彩り、みな足を止める。
足を止めて何をするか。とにかくスマートフォンで写真を撮るわけだ。
歩く。桜が視界に飛び込む。「きれい~」と言うが早いか、スマートフォンを取り出す。写真を撮る。納得がいかずもう何枚か撮る。いいやつが撮れたら満足げにスマートフォンを仕舞う。人によっては、急ぎSNSにアップする。
で、また歩き出す。すでにその視界に桜はない。あんなに綺麗に咲いているのに。
いとう:
それって、対象にアクセスしているように見えて、むしろアクセスから遠ざかってるともいえるわけで、細かいことに気づかなくなる。
そうなると、あれこれ記録してはいるけど、実は何も見ないで一日を過ごしてたに等しい、ってこともありえる。これってものすごい逆転現象だよね。
――いとうせいこう×星野概念『ラブという薬』より
2010年代、「写真を撮る」「写真を公開する」という行為はきわめて手軽なものになった。最近のスマートフォンは画素数もすごい。俺だって写真は好きだ。でも、あえて画素数って言葉を使うけど、どんなカメラよりも人の目のほうが画素数は多いはずだろう。
何のための目玉だよ。スマホばっかいじって下を向くなよ、上を向け。桜は足元には咲いてないんだから。とか何とか。
東京の桜は開花まであと1週間らしい。
こんなことをnoteに書いているくせに、俺もたぶんシャッターは切るんだろうなと予感している。でも、いとうせいこう氏の言葉を借りるなら、めいっぱい対象にアクセスしながら写真を撮ってみたいと思う。
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