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みんな「普通の人」だし「ヤバい人」だよ

ヤバい人だ、みたく言われることがあるし、言ってしまうことがある。そういうとき、軸の反対側には「普通の人」が想定されていて、要するに「普通よりも面白い」とか「普通よりも嫌な感じ」ってこと。褒め言葉だったり、貶し言葉だったりする。

同じように、自分の属しているグループを指して「ヤバい人ばっかりだ」という台詞も聞くことがある。僕だって「その『ヤバい』の定義は?」なんていちいち訊いてたらとっくに友達を失くしてるわけで、ふむそんなものか、と曖昧に頷きながら過ごしている。

ヤバい、って何だろう。僕の持ってる第六版の『広辞苑』には「不都合である。危険である。」とだけあるけど、今やもっと多くの意味を背負ってるはず。たぶん最新の第七版では、もうちょっと意味が加えられてるに違いない。

なぜ「ヤバい」がこんなに普及したか。おそらく理由のひとつは「発話する側が楽だから」。プラスなのかマイナスなのかから始まって、言葉の意味の確定作業を、受け手側に委ねられるから。

ただ逆に言えば、そんなにも高度なコミュニケーションが成立する間柄だからこそ使える、ってことでもある。そこは難しい。それに、人によって定義が様々だ。どこからが「ヤバい」のか。志村けんをヤバい人だとしたら、高木ブーはヤバくないのか。

いずれにせよ、面白い行動、変わった性格、目を引く経歴、全部ひっくるめて「ヤバい人」という表現で片付けるような風潮が確かにある、と感じる。

冒頭の話に戻ると、僕が言いたいのは、「じゃあ『普通の人』って誰よ?」。

いわば仮想敵のように僕の頭のなかにいる「普通の人」は、たとえば中学の英語の教科書に出てくる「Mike」だったり「Emiko」だったり、あるいは渋谷のスクランブル交差点を歩いている大量の「誰か」のうちの一人だったりする。なぜそれを「普通の人」と呼べるかというと、その人のことを何も知らないから。

とても当たり前のことかもしれないけど、ある人を「ヤバい」と評する行為は「その人のことをよく知っているから」できるわけだ。とすれば、「Mikeはヤバい」と言ったときに示せる内容は「Mikeのヤバさ」なんかではなく、単に「Mikeのことをよーく知っているんだよ」ってだけかもしれない。

なぜなら、どんな人にも「普通の部分」と「ヤバい部分」があるから。割合の違いはあるにせよ。

ともに過ごす時間が長いほど、あるいは「ヤバい部分」を意図的に見たり見せたりしようとするほど、「普通」が捨象されてざっくりと「ヤバい人」になっていく。他者との差異がわかりやすくなる。

もちろん、すべての知り合いが「普通の人」から「ヤバい人」へ、という曲線を律義に辿りはしない。でもそれだって割合の問題にすぎない。

じゃあ「ヤバい人」という表現が悪いのかって?

別にそうは思わない。ただ、少なくとも乱暴だなとは思うし、そういう多義的な一単語でバッサリと細部を切り捨てて他人のことを表したくはない。

ひどく疲れるし、自己満足かもしれないし、単に若者言葉を嫌ってるだけだと言われればそれまでだけど。こうした生き方は、毒入りだと知っていてもやめられない絶品の酒のようなもので。

まあこんなことを言ってるあいだは、自分は元気ってことなんだろうなと思う。

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