見出し画像

2017年10月28日

以下、Facebookよりnoteに転載。

私はFacebookの適切な利用法を今一つ理解していません。
理解していないからこそ確保される、太平楽にも似た自由の下に、今フリック入力をしています。
若気の至りと言い換えても良さそうです。

一人の青年の話をします。

彼には、ある試験に合格するという目標がありました。
何の試験であるかは本題とは関係ありませんので、大学でも就職でも科挙でも、好きなのを想像してもらえれば結構です。
「彼」に関しても、この際そうした三人称を仮に用いているだけであり、その他のプロフィール一切は詮なきことですから割愛します。
さて彼は独力という二文字になぜだか殊更こだわって日ごと勉強を重ね、一年の後、見事に合格の栄誉を勝ち得ました。

ここでどうやら当人にとり想定外であったのは、彼は現実における成功を精神面に上手く結びつけることのできぬ人間だったということです。
合格の報を伝える彼の表情は不可解にも陰っていました。
それどころか、周囲の人たちの無責任に喜ぶ姿に対し、その目には悲しみの如きものさえ湛えていたように見えました。

その夜、誰も見ることのない小さなノートに、蠅や蟻の頭のような文字で記されたのは以下のような告白です。
「血を吐く程の努力をしようと決意したにも関わらず、とうとう血は一度も吐かずに仕舞った」
「だから此の一年間は成功か失敗かで言えば失敗である」(概略)

一年間を懸けた言わば人生の一大プロジェクトにおいて、世間的な成功は収めたものの、彼の内面の評価基準に照らせば決して成功呼ばわりすることはできないのです。
彼は今後もかような生き方をしていくのでしょうか。
何か達成したという事実を、幸せへと変換する技術を身につけぬまま、何か片付けてはその不完全性にばかり気を取られ、後悔の連続の中で一生を終えていくのでしょうか。

しかしそれを不幸だと決めつけるのは傲慢です。
時あたかも個人主義極まりつつある21世紀にあって、それが彼の唯一の生き方だというならば、口を挟む権利は誰にもないはずなのです。

もちろんこの私にも。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?