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ツイートされなかった言葉たち #1

「奇人もさまざまで、わざわざ奇人ぶる奴があるから、外面(うわべ)を見たばかりぢゃア、わからないヨ。」
「中には奇人といはれるのを、自分の名誉だと思つてゐるのか、わざわざ非常(かわつ)た所行をしたのを、自分でなんだか自慢らしく、吹聴をしてあるくのがあるヨ。」
――坪内逍遥『当世書生気質』より


「いつからだろう、西高が変人の多い学校とされるようになったのは。」
――ペンネーム:ひみつ「西高性」より(都立西高校 67期飛翔出版会『飛翔四十一号』収録)



 例の教室では誰も此方を見て呉れないと思っていた。本当は貴方が見て呉れていたと後から知った。此れだからReal-time communicationは難しい。
 InteractiveなVirtual communicationは楽園だ。“つぶやき”を載せたり、“物語たち”をそっと置いて居れば、貴方が余を見て呉れている証拠に貴方の“偶像”が現れる。“返信”だって“直接通信”だって頂戴。どうか此方を向いて呉れ。一秒だって構わない。あれ、其の“好いね”は、本統に“好いね”と思ってる? 然しそれでも享受しよう。其れが本統にInteractiveかどうかは問題で無い。Interactiveだと思い込むことが、此の楽園で生きていく術だ。
 Textとして切り取られた貴方。Instant-telegramの“物語たち”の中で、substanceとしてうごめく貴方。手の中に、この“賢い電話機”の中に今、斯様に貴方を所有している。
 なんて幸せな地獄だろう、と余はまた“つぶやく”ばかり。



「君、大学の学部では文学部が一番かっこいいだろう」
「なぜだね」
「時あたかも欺瞞に満ちた二十一世紀、インクの染みが印刷された紙の束……巷では『本』とか呼ばれるがね、それだけを武器にして立ち向かうわけだ。これがかっこよくないで何とする」
「しかるに、そのインクの染みが何になるんだい」
「じつは未だ皆目見当がつかん」
「じゃあ駄目だ。当の本人がそれなら、なるほど文部科学省が軽んじるわけだ」
「君、どうもこれは二十年やそこらで見通せるもんではないよ。人生をかけてそれらしい答えを見出すべき問題だ。僕はそれをやる」
「がんばってくれたまえ。何せ今はびこってる大人たちの『それらしい答え』は、とんと要領を得んからね」



わけのわからない
苛立ちでむせぶ
ここじゃないどこかはどこにあるのかと
心焦れている
――DOES『イーグルマン』(作詞:氏原ワタル)より



 みなさん、私は先刻、ウォークマンの音量を8に合わせました。そして今、電車の外に出たから10に上げます。もちろん外は電車内よりもうるさいから10に上げるんですが、でも今ぞっとしませんでしたか? ああうるさいな、10がちょうどいいな、と思ったから10にしたのではなく、半ば無意識的に、なにも考えず10に上げたんですよ。一口に外と言っても、場所によってどれくらいうるさいか違うってのに。そうでしょう? これじゃ自分が10に合わせてるのか、それとも10という数字に自分が合わせられているのかわかりませんよね。ははは。つまるところ私がウォークマンに支配されているような気がしたんです。これってごく狭い意味でのシンギュラリティでしょう。意識の力点をどこに置くかっていう問題系におけるシンギュラリティ。そういうのが嫌でわざわざスマホじゃなくてウォークマン使ってるってのに、ほんと、たまったもんじゃありませんよね。ははは……



これはいい言葉だいい文章だいい人生だと大人たちが褒め合って、傷をなめ合って、ああもう何だそれ苛々する。きれいごと語りやがって。きれいごとを語るな。考える前に動けとか、忙しいけど楽しいとか、うんざりだよ。この俺たちがそんな姿を見て何になる。こうしている間にも中指が切り落とされて、ここじゃないどこかを諦めて、にこやかな大人になりゆく途上の俺たちが。



一歩踏み出す にべもなく
二の句は継がぬ我が身さえ
三つ折りにして捨てたらば
世の愉悦 みな、我のもの





編者あとがき:
「ツイートされなかった言葉たち」は、気がつけば100個ばかり溜まっていたツイート下書きの寄せ集めコーナーです。

「これツイートしたら友達減りそう」
「これ誰にも共感してもらえなくて0いいねで悲しくなりそう」
「これ倫理的にアウト」

こういったものが下書き送りになります。とはいえ普通に載せるだけでは味気がないので、詩だったり小説の一部分っぽくしたり、好きな小説・歌詞から自分の思考と響き合う断片を引用してみたりと様々な「文章」の形で放出しています。

この発想は太宰治の短編「葉」(『晩年』収録)へのオマージュであり、「葉」は僕に「文章とはこんなに自由なものなんだ!」と一種の感銘を与えてくれた強烈な作品であります。

太宰ほどの優れたモンタージュ能力は僕にありませんが、元来自分がnoteを始めたコンセプトに鑑みても「好きなように書く」ことを大事にしたいってことで、思いっきり好きなように書ける場を、太宰の名を借りるなどズルい真似までして、こう整えた次第です。

よろしければ次回もまた覗いてください。Twitterの下書きが空っぽになるまで続けるつもりです。

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