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”もう二分で・・・” 短い歌詞に広がる情景、”帰郷”を読む

高見沢さんが書く歌詞は大きく分けて二つに分類されると思う。

メッセージ系:テーマ重視な Sweat and Tears、鋼鉄の巨人 など
ストーリー系:映像が浮かぶ メリーアン、星空のceremony、光と影のリグレット など

もちろんその大きな枠の中で細かく枝分かれしているのだが(その話はまた今度)、どちらのタイプの歌詞も ”これぞ高見沢さん” な表現や味が隠れているし、この2タイプのミックスの楽曲も多い。

初期の頃の歌詞はストーリータイプが多く、まるで高見沢さんが書いた小説を読んでいるような、彼が作った映画を見ているような曲がたくさんある。

還暦過ぎてから小説家デビューし、先日3作目の本が発売された高見沢さん。
3冊とも全く違うタイプのストーリーでありながら、どれも彼らしい表現と味に溢れているが、彼の”文学作家”としてのデビューはアルフィーの再デビュー(”ラブレター”1979年)だったというのが彼が書く初期の歌詞を読むとよくわかる。

1980年発売・ALFEEのアルバム”讚集詩”はまだ20代半ばの若く初々しくこれから羽ばたこうと助走をつけた白い鳥(=高見沢さん)を思わせる。

その中から今日は ”帰郷” を文学として読んでみよう。
歌詞はこちら:Victory Gardenさんありがとうございます)

3分ちょっとという短い曲に限られた表現から大きな映像を作り出すには色んな文学的テクニックが必要だ。
ストーリー系の歌詞はサッと読むと情景が簡単に浮かぶ。人物も風景も心情も描いてあることが見える。

でもきちんと読み込むと世界は更にわーーっ!と広がる。それが高見沢さんの歌詞。

北行きホーム たたずむ二人 最後の言葉も きりだせず
足元散らばる 吸殻だけが 心のあせりを 見せつける
わざと俺から目をそらす お前のその心には
四年分の涙と片道切符 あきらめきれないのに
やり直す自信もない 今さら口惜んでも 時は戻せない

もう 二分ですべてが想い出に変わる

帰郷:作詞 高見沢俊彦(以下の引用も同)

たくさんの吸い殻から心の焦りだけでなく時間の経過、屋外であること、たたずむという動きを感じさせない描写からまだ汽車は来ていない、閑散としたホームの様子が浮かぶ。
わざと目を逸らす”お前”という表現から彼らの親密な関係性、彼は焦りながらも彼女をしっかり見ていることが想像でき、彼の焦りが一層増すような心の内も見える。

書いていないのに短い表現からも状況や人物像、さらには音や匂い、温度や距離などが見えてくる。これはもう文学!高見沢さんの初期の歌詞にはこういう文学性に溢れたものが多い。

そして彼女の心にある涙と片道切符。
切符は手に持っている物理的なものではなく ”もう帰ってこない” という彼女の決心であり、その決心はたくさんの涙ゆえで、その決心の揺るぎなさに彼は”やり直そう”とも言えない。彼は十分すぎるほどに彼女が帰郷する理由がわかっていることが見えてくる。
彼女が彼から目を逸らすのは彼に”やり直せるかもしれない”というわずかな望みを与えないためなのかもしれない。

そして ”もう二分で” 彼らの全てが終わりを迎え、過去になる。
私はこの ”もう二分” が高見沢さんらしくて本当に好きだ。

二分という時間のギリギリな絶望をこの”もう”が際立たせている。

残り二分で何かが起きる、という時に普通私たちは ”あと二分で” という言い方をすると思う。
あと二分で授業が終わる、あと二分で開演だ、あと二分で爆発する、など。

もう二分もあと二分も意味は ”二分経ったら何か起こる” と同じだが、受ける印象がずいぶん変わることに ”なぜ高見沢さんは もう二分 にしたのだろう” と考えている間に気づいた。

あと二分、だとその後に起こることの向こうに未来が見える。
休み時間や楽しいライブや悲惨な死や、良いものも悪いものも平等に未来がある。
だけれども もう二分 にはそんな未来の図は浮かんで来ないのではないか。
”もう二分で授業が終わる”  だと授業終了に重点が置かれ、その先は重要ではない。
もうちょっとで出来あがる、もうすぐここを抜ける、そんな文章もフォーカスを当てているのは出来あがる・抜けるという結果であり、その先はぼんやりしている。

更に付け加えると ”もう二分” から、彼が仕切りに時間を気にして時計を何度も見ていたのだろうと想像もできる。キリのいい五分でも十分でもない、二分。
これに気づくのは何度も何度も時計を見て心の中で、あと四分、あと三分、と焦る彼だけだろう。

永遠の文学青年、高見沢さんはこの ”もう二分” で上手に彼の絶望を描いた

このホームにいる二人に二分後に起こるのは ”汽車が到着する” であり、彼女がもう手に届かない場所に移動する(そしてさらに遠くへと動き出す)こと。
彼女が汽車に乗り込む時に彼らにとっての全ては想い出と化す。
そう終わるのが一番。

その二分が過ぎてしまい彼女はすでに動く汽車の中にいるシーンから始まる二番。

走り始めた列車の窓を 叩きながら追いかけて行く
涙で互いに顔が見えずに 声にならない サヨウナラ
俺が 愛を食べ尽くして 言葉もない毎日で
お前との暮らしを こわしてしまったのか
故郷捨てたはずの お前が ひとり 帰る気持ちが痛々しくて

もう 二分で すべてが想い出に変わる
もう 二分で すべてが想い出に変わる

二番もまるで映画のように時間を追っての行動が描いてあり情景が容易に浮かぶ。
この二番で私が あぁ文学青年高見沢さん と特にジーンとするのは2箇所。

一つ目は サヨウナラ。 さようなら、ではなく サヨウナラ。
カタカナで書かれるとどこか無機質で感情がついてきていないような、それでいて詩的に寂しく、”声にならない”  苦しさが見事に表現されている。
”さようなら”と言わねばならないけれど言えない、それがサヨウナラ・・・まるで自分のことではないような他人行儀で嘘のような、サヨウナラ。

そしてもう一つが最後の ”もう二分で”。
一番では ”もう二分で” 汽車が到着し、二人の未来が消えて過去という想い出だけになってしまう、と絶望にくれた高見沢さん。

すでに汽車は到着し、彼女は中にいる。
ということは、この ”もう二分” で起こることは汽車の到着ではなく、汽車が走り去り見えなくなる時間だろうと想像する。
全く同じ文章のリフレインなのに、状況の違いから彼がタイムリミットの二分を自分の中で延長したのがわかる。

彼女が汽車に乗ったときに”想い出に変わる”はずだったのに、それでもやっぱり諦められない高見沢さんはせめてあと二分、汽車が見えなくなるまで”終わり”を先延ばしにしたかった。

こんなに短い文章に大きな情景と人間模様をぎゅっと詰め込んだ高見沢さん、天才だよ、天才。いつかこんな風な純文学な小説も書いてくれないかな〜。

切ない歌詞と若かりし頃の儚げで美しい歌声があいまり、心がきゅーーんと掴まれる名曲です。(アルバム”讚集詩” 聞いたことない人はぜひ全部聴いてみてください、本当に素晴らしい名盤です)

シマフィー

高見沢さんの文学青年っぷり、あちこちに現れてます。


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