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I Recall, Therefore, I Am

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山あり谷ありの海外生活。今思えば毎日が自分を作る・伸ばすチャンスの場でした。チャンスをつかんだこともあれば、逃したこともある。そして今振り返ってやっと”あれがチャンスだったんだ”…
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#中国生活

はじめてのおつかい(シマちゃん、30歳)

中国の大学で仕事を始めてからキャンパスを出る時は常に中国語が話せる外国人教師の同僚か英語を話す現地の教師と一緒だった。というのも私は全く中国語が話せず、1年限定の仕事(の予定だった)だということを理由に、特に学ぼうともしていなかったからだ。(*現在はアメリカ東で教師をしています) そんな私が2ヶ月ほど経ったある日、初めて一人でお使いに出た。 欲しかったのはパンとバターだ。 大学では3食とも職員食堂で食べていた。こってこての中華で(当たり前)美味しかったのだが、毎日毎日お米

敦煌:鍋の中

21世紀の幕開け、2001年へ年が明けるその時、私は敦煌にいた。 1年間という約束で、アメリカから中国へ一緒に行った彼は上海で働いており、田舎に派遣された私とはひと月に一度くらいしか会えず、寂しかった私はその彼が敦煌の中学校に3ヶ月ほど出向くということになった時に、敦煌まで訪ねて行った。 大学時代に歴史の授業を沢山とったけれど、ほぼ全てがアジア以外の歴史で、中国史といえば毛沢東あたりからのことしか知らない私も、西安には兵馬俑があり敦煌はシルクロードの分かれ道くらいは知って

選ばれない私

アメリカの大学院で燃え尽きて、中国へ渡り英語教師をしていた私(昔のお話です)。*現在はアメリカ在住です。 中国へ行った当初の話はここ↓ 私は勤務先の大学から毎月のお給料とビザを貰っていたが授業は1週間に三日しかなく、残りの時間を埋めるため(と稼ぐため)にアルバイトをしていた。 教師の資格と経験のある私は、語学学校や移民斡旋の会社、お金持ちの奥さんやお子さんの家庭教師、外資系ホテルのワークショップや羽振りがいい会社の専属トレーナーなど、中国語が出来るのもあり、割と引く手数

忘れられない告白

中国の大学で教えていた時、ほぼ毎週男子生徒からラブレターを貰っていた。 色んな方法でラブレターはやって来る。 宿題に貼り付けて テストの裏の余白に 郵便で 手渡しで 友達を経由して そして自宅のドアに貼り付けられて 私は大学敷地内の教職員用の寮に住んでおり、通りを挟んだ寮に住む生徒等はなぜか教師の部屋番号や電話番号を知っていた。 生徒たちは教員用の建物に入ることは許されておらず、門番もいたのに一体どうやって忍び込んでいるのか不思議だったが何週間に1度か2度は部屋のドアに

スイカ兄弟の目論見

デザート用のスイカを半分に切り、赤い果肉を見た時にふと思い出した。 ずっと前に中国の大都市に住んでいたある夏、あまりにも暑いのでスイカジュースを毎日3杯以上飲んでいた。 *どれくらい暑いかっていうのはこちらの記事に書いています。 スイカジュースを作るために、自宅には常に大玉のスイカを2個冷蔵庫に入れていたのだが、とにかく大量に飲むため、1日おきくらいにスイカを買いに行かねばならない。大抵は仕事帰りに2ブロックほど離れた道に路駐されたオンボロのトラックで一玉(というか細長

イケメンラオワイと知らん人の結婚式

中国の大都市で働いていた時にボーイフレンドと郊外にあるリゾートホテルに週末だけのプチバーケーションに出かけたことがあった。 出来たばかりのホテルには美しい中庭や大きなプールもあり、ロビーもレストランもピカピカで私たちはチェックインする時にホテルの厚意でアップグレードしてもらい、なんと生まれて初めてスイートルームに宿泊した。 まぁ、厚意というかハメられたというか・・・ホテルがアップグレードと引き換えにお願いして来たのは、ボーイフレンドに広告のモデルになってほしいという事だった