バニラエア事件から考える社会(Society)問題

自力で歩くことができないのを理由に、飛行機への搭乗を拒否された下半身不随の男性が、航空会社側の静止を振り切り、腕を頼りに自力でタラップを這い上がるという“事件”が起こります。


その事件がメディアで取り上げられ話題になったことで、現場となった奄美空港には、車椅子でも搭乗が可能になるよう、アシストストレッチャーや階段昇降機が配備されることになりました。


アシストストレッチャーや階段昇降機は、何も、障害を持つ一部のマイノリティの利益ではなく、例えば健常者にとっても、旅先で事故にあい、車椅子の一時的な利用を強いられる場合、また、加齢によって自身や身内が、移動の際にそうした補助が必要になることも十分に考えられます。

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結果だけを見れば、公共の交通機関でバリアフリー化が拡充されたことになり、それについては、早急な対応をとった航空会社(バニラエア)に対しても、一定の評価がなされるべきだと思いますし、また企業を動かした男性の行動についても、称えられてしかるべきではないでしょうか。

「そうして日本社会は、また一つ良くなった。目出度し目出度し」というのが、今回の“バニラエア炎上事件”についての所感ですが、果たして、“世間”では、今回の男性の行動を、“わがまま”や、“クレーム”だと批判、バッシングする言説が目立ちます。

そうした批判、バッシングから浮かび上がってくるのは、日本社会には、 “Society(社会)”という概念が未だに根付いていないのではないかという疑問です。

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Societyとは、明治時代になって、新しく日本に入ってきた西洋の概念で、この邦訳としては、現在では「社会」という言葉が一般的になっています。

しかし、当時は他にも「世交」や「交際」等、様々な言葉が、その訳語として使用されていることからも伺えるように、このSocietyという概念を、如何に日本に“移植”するか、当時の知識人たちは頭を悩ませました。

Societyの語源は、ラテン語で「親交、友愛、絆」を意味するsocietas(ソキエタース)ですが、「親交、友愛、絆」に基づく、同質平等な個人と個人のつながりとしての「社会」は、身分制度・家制度を土台とする幕府の国家には存在していませんでした。

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「社会」は、“社(やしろ)”に“会する”人々です。“社”とは、もともと中国語で、土地神を祀る祭祀施設を言いますが、日本社会においては、その「社」は、血族であったり、地縁であったり、または特定の利益であったり(「社会」と「会社」と言う言葉は、全く同じ概念の上に成り立っています)、そして、そこに会する人々は、極めて限定された集団です。

しかし、集団を限定するということは、「私たち/彼ら」を区別することに他なりません。
そうした、「私たち/彼ら」を区別する“社”の感覚が、現在においても、日本社会の根幹にあるように感じられます。

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本件に関しても、男性が結果的に何を為し得たかではなく、まず、彼がどの「社」に属する人間なのか、今回の場合はそれが「障害者」であり、対立する概念としての「健常者」に属している人たちからのバッシングという構図になっているのではないでしょうか。

しかし、繰り返しになりますが、結果として生じた地域のバリアフリー化の一例は、何も障害者に限られたことではなく、総じて社会全体の利益です。
また、仮に障害者に限定された利益だとしても、健常者が障害者になる可能性、つまりは、利益享受者になる可能性は常に存在しています。

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他にも、例えばデモ等の社会運動に対する、社会全体に漂う漠然とした拒否感も、社会運動が、特定の“社”の利益拡充運動だと捉えているところから生じているように思われます。
(※更には、特定の“社”の利益は、別の“社”の不利益になるという、ゼロサムゲーム的思考に基づいた、短絡的発展も加味されるでしょう。)

言ってしまえば、現在の日本においては、限定的な“社”を超えた、普遍的な、広い意味での“社会”の存在が信じられていないというのが、実情ではないでしょうか。

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