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"僕が僕であるために"

酔った勢いで、30分で書きます。

今日は、#2019年新年会 と称して、大学時代のマブダチの先輩と飲んでいました。

その中で、改めて「僕が僕であるために」ということを考え直していました。

お互いに"やりたいことを仕事に"して生きるという人生観で動いているし、お互いやっていることをリスペクトしてここまで来ているなと思いました。

では、「僕が僕であるために」何が大事なんだろうということを、#呑みながら書きました 。

正しいものは何なのか それがこの胸に解るまで

「僕が僕であるために」は36歳で夭折した伝説のロックシンガー、尾崎豊氏の名曲です。

その中のフレーズから、「僕が僕であるために」何が大事なんだろう、それをまとめたいと思います。

人を傷つけることに目を伏せるけど
優しさを口にすれば人は皆傷ついていく
僕が僕であるために 勝ち続けなきゃいけない
正しいものは何なのか それがこの胸に解るまで
僕は街に呑まれて 少し心許しながら
この冷たい街の風に歌い続けてる

僕は優しさを口にすることがある。人にやさしく、人の苦悩と向き合おうと必死だ。でも、その弱さと向き合うということは、つまるところその人の弱さと向き合う、極端に言えば死にたい気持ちと歩み続けることなのかもしれない。

それでも「正しいものは何なのか それがこの胸に解るまで この冷たい街の風に歌い続ける」しかない。

なにせ、現代ほど「正しいもの」が存在しない時代もない。SNSをのぞけばフェイクニュースばっかり。街を歩いていれば売込みばっかり、広告ばっかり(これを僕は椎名誠氏の「アド・バード」現象と呼んでいる)。

結局、正しいものを追及する姿勢を取り続けることは、常に発信をすること、常に理想を追い求め、現実とのギャップを切り崩すことなのかもしれません。それは、自分の理想と現実のギャップを埋めることと。

その世界では、最後は自分を信じるのみ、という結論が殺しにかかります。「すべからく自分の人生は自己責任だ」と。

ここまでのフレーズではあくまで「自分の正しいを問い詰めろ」という話に過ぎないのかもしれません。でも、「僕が僕であるために」は、もう一つの問いかけを置いています。

こんなに君を好きだけど 明日さえ教えてやれないから

「僕が僕であるために」の中では、「僕」だけではなく「君」という人物が登場します。とはいえ、「僕」主観の、勝手に描いた「君」に過ぎないのですが。

別れ際にもう一度 君に確かめておきたいよ
こんなに愛していた
誰がいけないという訳でもないけど
人は皆わがままだ
馴れ合いのように暮らしても 君を傷つけてばかりさ
こんなに君を好きだけど 明日さえ教えてやれないから

人間の本質は、「関係性」が定義するもの、と苫米地氏がおっしゃっていましたが、「僕が僕であるために」はそれを先取りしていたのかもしれません。

「君」と馴れ合いのように暮らしても、君を傷つけてしまう、君の人生では、君は勝ち続けなきゃならない、それを僕が支えるべきなのに、迷惑しかかけてない。こんなに好きでも、君の明日(未来)に導くことはできないな、という諦念とともに、やはり僕の人生を生きるよ(僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない)という思い切りなのかもしれません。

僕は僕でしかない

最後の「こんなに君を好きだけど 明日さえ教えてやれないから」というのは、結局「僕は僕でしかない、君は君でしかない、だからどんなに頑張っても君の未来は作れない」という諦め、だと思います。

だからこそ、僕(しまさん)は、君という誰かの思いも共感するし、考えも共感するし、価値観もそっくりであっても、「明日さえ教えてやれないから」という姿勢でコーチングとかメンタリングとかをしないといけない、「俺が導いてみせる」ことなんて無理な話だ、という前提で君と一緒に歩む、伴走をしなければいけないな、そう感じました。

君にとっての「宝石になりそうな日」を作ってあげることはできても、「その先の世界を教える」ことができても、「君の明日さえ教えてやれないから」という姿勢でいなければいけない、限界を知って、お付き合いをする必要があるな、と思います。

酔った時ほど、本音と本気を見せられると思って、#呑みながら書きました 。


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