僕らの大嫌いな、そして大好きな「みんな」【しまさんの読むRadio】
先日、NHKでサザンオールスターズのテレビLIVEを、偶然、ほかの人のツイートを見て見に行ってしまった。最初そのつもりなかったんだけど。
DeNAの試合見る気だった。LIVE終わった後に見たけど、なおその試合は負けた。
偶然、だったので、LIVEはもうラストナンバーだった。曲目は「みんなのうた」。
普通に見ていたけど、気が付いたら体を横に振っていた。曲に乗っていた。そして、涙が溢れてきた。
完全に曲の歌詞で持ってかれた。
そのことを書くついでに、「みんな」って言葉の話もしようと思う。
まあとりあえず、聴いてくれ。
なんと、サザン公式がロッキンジャパン2018(デビュー30周年)のときの映像を無料公開しているのだ。これで再度聞いて、ドはまりした。ヤバイ。
曲の内容は完全に「夏のラブソング」っていう感じなんだけど、なによりLIVEの時に映りこむ観客との一体感がすごくて、まさに「みんなの」うたになっている。
多分、みんなが好きな「みんな」ってこれのことだろう。それを曲の中ではこんな風に言っている。
みんなで空高く 舞い上がれ
やがて誰の心にも
虹のカーニバル
そう、舞い上がれば、誰の心にも「虹のカーニバル」を楽しめるんだと。
この「無選別性」かつ「自分が参加出来ている感覚」は大事な要素なのだろう。
いつしか、みんなで楽しむこと、が個別性を高めすぎて、みんな寂しい、という事態を生んでしまってる気がするんだ。それぞれの趣味とか好みとか、別れすぎて、分けすぎて、それぞれが「個」でなく「孤」になりかけてる、と
みんなが嫌いな「みんな」
とはいえ、そのような「個」の時代になるのも無理はない。
最近よく見かけるネット言論に「みんな、が日本を滅ぼす」というのがある。実際、Twitterでもよく見かける。日本が敗戦した理由でもある、と言い切る人もいる。
海外でもこんな評価だった、なんて記事が出るくらい、「みんな」教が日本人だし、一方でその同調圧力が自由を奪ってるから、「みんな」が大嫌いだと言う人が増えてきている。ボクも、嫌いな方ではあるだろう。(嫌われたくないので結局埋没させるんだけども)
でもね、「みんな」も悪くないってこともあって。それがサザンの「みんなのうた」に込められてる。
多分、僕らが好きな「みんな」というのは、まさに「一体感」であり、「みんなのうた」に書かれている
みんなで声合わせ 飛んでゆけ
やがて雲の切れ間から
風のハーモニー
という感覚なんだと思う。
先述したような、「無選別性」かつ「自分が参加出来ている感覚」。
誰もが参加出来て、誰もが同じ向きを向いて、前に進む、楽しむ。
この「みんな」まで滅ぼす必要は無い。
僕の意志を全く無視した「みんな」に巻き込まれるのは確かに嫌だ。しかし、参加したくて参加して、わーわー盛り上げる輪の中としての「みんな」なら大歓迎なんだと思う。それが日本人の「祭」文化的なものかもしれないし、前を向ける瞬間なのかもしれないな、なんて思った。
いまほど「みんな」になれないのに「みんな」を強制される状況もない。最悪だろう正直。
だから、いつか「祭」のような、「みんなで空高く舞い上がれ」るようになる日を待ち望む。それまでは、家で、または公園で、盛り上がろうかな。
文末に、自分がすごく気に入って、つい涙を流したラストのフレーズを置いておこうと思う。
僕には、ない、夏、だと思う。
この胸に抱いてた
ひそやかな悲しみさえ
遠い夏の孤独な街並みは Blue
熱い波がまた揺れる
いつの日か この場所で
逢えるなら やり直そう
忘れかけた真夏の恋人は You
喪失感的なものと、一方で「いつの日かこの場所で逢えるならやり直そう」というリスタートをさせてくれる歌声に、ボクは涙したんだろう。
こんな、夏は、もうないのかな。
どうなんだろう。
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