見出し画像

そこらじゅうにあるはずの、流れにただ身を任せたい

『ヒノサト』 下高井戸シネマ
日々をつなぐ


上映後の大川さんと飯岡さんのトークにて
「スクリーンの外に意味を置いた(ニュアンス)」
のような言葉があり、しっくりときた。
言葉にしたり、わかりやすく意味を含ますと
「何かを理解・了解」しないといけない感じがする。
飯岡さんのドキュメンタリーにはわかりやすいそれはなく、ただこちらに委ねられるだけの時間を過ごす。そんなようだった。
私にはそれが優しさに感じられた。


飯岡さんの撮影する作品を観るたびに、
意味が通らない涙が出ていることに気がついたのは、先日『彼方のうた』を観た時だった。
というか、私がそうして涙を流していた作品は飯岡幸子さんという方が撮影しているのだと、知った瞬間だった。
そんな時に、タイミングというのはうまく付いてくるようで『日々をつなぐ』という飯岡さんが参加する特集があり、そこで流れるままに彼女の監督作品『ヒノサト』を観ることになる。


大切な瞬間は流れるままに意図せずやってくる、
ということを最近よく実感するのだけれど、
またしてもそんな感覚になった、、きっと忘れられない私のタイミングになるだろう。

飯岡さんが2002年に制作したドキュメンタリーには、彼女の故郷の風景や人々が、彼女の祖父の日記や絵の記録と共に、彼女が残したいものが切り抜かれた記憶のようにゆっくりと、スクリーンに流れていた。
やっぱり、まだ、涙の意味はわからないけれど、彼女の映すそれらは、いつも、私の過去に入り込むようなものなのかもしれない、だから私は彼女の映像を観ると過去の自分をどこかに探し出し、いつかの私を大切に想うようにして涙が流れるのかもしれない、、、セリフなどがない彼女のドキュメンタリーを観ていると、自分のそんな気持ちがセリフとして湧いてきて、また気がつくと涙が静かに流れていた。いつも以上に不思議な感覚。
その時にスクリーンに写っているのは、グラウンド付きの公園の横で1人座っている少女とその後ろに夫婦のような男女が立っている、そんな映像だった。私の過去になにが、誰が、どう交わってきているのかわからないけれど、しかしそれでも、その瞬間に涙が流れ、私はその映像にいつかの私を観たようだった。


この心地よさは一体なんなのだろうか。

飯岡さんの映像を観るたびに、
不安や恐れや憎しみのようなものが自然と身体の外へ溶けてゆき『いつもの私』のような心が軽くなり、人として生きていることを理解し、その喜びに溢れる。


私の観ている世界も
こんなにも優しさや弱さや温かさや厳しさで潤っているのだろうなという安心感に委ねられるのだろうか。そんな気がする。きっとそうだ。


近々、小学生や中学生の頃にたまに行ったスポーツセンターへ行ってみよう。小学生の頃シアターゾーンで映画を観た記憶のある近所の図書館へ行ってみよう。あとは、そうだな、その頃とは少し違う格好や行き方で、今の私としてそのスポーツセンターでアイスクリームを食べたり、図書館で周りの音を聴いてみたり、してみようかな。

飯岡さんと大川さんのトークから伝わってきた気がした、飯岡さんのきっとそうであろう人柄にある柔らかな余白が、今回のドキュメンタリーとどこかでつながる感じがあり、人の作るものは、やはりその人とどこかで必ず繋がっていて、作り出されたものはその人自身であり、分身であり、そこが危うさでもあるのだろうと、そういうことから『人の作り出すもの』の有り難みと重要さを改めて実感した。


優しい気持ちになれることの、知らない糸口が
まだまだ人生の中にはあるらしく、
今日の映画体験はその一つであって、
私はまだまだ人を好きになれて、人で良かったと思えるらしい。良かったな。良かった良かった。


彼女の関わる作品には、開放される、ものがあるらしい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?