見出し画像

自責と他責について

以前、会社の昇任試験で落ちました。

試験は、1次は筆記、2次は論文と面接。2次で落ちる人はほとんどいませんが、なんとこの2次試験で落ちたのです。

優秀な複数の上司に論文の添削や面接対策をしてもらうなど万全の準備をして臨み、「大丈夫!」「君が落ちたら誰が受かるんだ!」と言われていただけに、大きなショックを受けました。上司たちも、「信じられない!」「何かの間違いでは?」と憤ってくれました。

そう、このとき私が感じたのは「怒り」。考えうる限り最善の努力を尽くし、周囲の人もきっと合格すると言ってくれたのに、なぜ落ちたのか?採点システムや試験官がおかしいのでは?という「他責」の怒りです。

筆記試験で落ちるのなら、実力不足だったのだろうとあきらめもつきます。が、論文と面接で落ちるというのは、ほとんど人格否定された気分。「おまえに、おれの何がわかるんだ!」と、どうにも納得がいかなかったのです(笑)

ところが先日、このような「他責」の反応が当たり前とは限らないことを知り、驚きました。

同僚の女性が、昨年じつは2次試験で落ちたと打ち明けてくれ、「私、めったに落ちない2次試験で落ちたヤバい人なんですよ!」「人格否定されたと思って、私の人生どこで間違っちゃったんだろうと、かなり落ち込みました」と言うのです。

他者のせいにしまくっていた私とは真逆。なんと素直でいい子なのでしょう(笑) 彼女は、思い切り「自責」です。

さて、自責と他責の違いは、どこから生じるのでしょう?

ひとつは、自信。

私は万事に対してあまり自信がない方ですが、昇任試験に関しては自信がありました。過去の合格者の体験談なども数多く聞いており、私ほど準備した人は聞いたことがありません。そのことは独りよがりでなく、周りの優秀な上司たちも認めてくれていたからこそ、他責に至ったのです。

彼女の場合、私ほどの圧倒的な自信はなかったようで、そのため「きっと、自分が至らなかったのだ」と自責に走ったと思われます。

自責と他責の違いが生じるもうひとつの理由は、コントロール。

自分でコントロールできないことであれば、自分を責めてもしかたありません。試験に合格するかどうかは、ある程度までは自分の力が及びますが、最終的には他者が決めるもの。

ぶっちゃけ、1次試験を通った者は力の差はそれほどなく、論文や面接でわかるのは好みや相性くらいでしょう。

私は、「さて、どのような人物が面接するのだ?お手並み拝見!」と面接官を面接するくらいの気持ちで臨んだので、「小癪なやつ……」との印象を与えたのかもしれません(笑) 面接官がどう判断するかは、自分の力でコントロールできないことなので、自分を責めるのはナンセンスです。

ただ、難しいのは、自分でコントロールできることと、できないことの見極めです。彼女は、自分で「コントロールできる」と思ったので自責し、私は「コントロールできない」と思ったので他責したのです。

「ニーバーの祈り」というものがあります。

自分で変えられることはしっかり変えられる勇気を、変えられないことは受け入れる勇気を、そして両者を見極める賢さをください、と神へ捧げる祈りです。

どう頑張っても自分でコントロールできないことをコントロールできると思い込み、コントロールできなくて自分を責めることは、意味がないとはいいませんが、じつに難儀なことです。

よく、「他人のせいにしてはいけない」「すべての原因は自分の中にある」といわれますが、自分でコントロールできないことまで全部自分のせいにしていたら、身が持ちません。

マジメな頑張り屋さんこそ、この罠に陥りがちではないでしょうか?もちろん、自分のできることを棚に上げて、他人の悪口ばかり言うのは問題外ですが。

自責と他責。コントロールできることと、できないこと。この2つを意識すると、生きることが少し楽になるかもしれません。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?