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呟きエッセイ:靴への期待とそれらすべてを破壊する頭痛の残滓

ロキソニンが効かない痛みは容易に人生を破壊する。

 昨日歩くことについて軽く触れましたが、つまり靴探しをしていたのです。運動靴というほど「ぽすぎる」ものでなく、カジュアルでタウンユースな見た目の、履いていて快適かつビジュアルに気持ちが少し上向くような靴です。
 簡単に見つかるわけでもなく、総移動距離と日数をかけて探した結果、最終的には値段と履き心地の落とし所を見つけて慣れた店での購入となりました。それでも1万5千円を超える靴は年金生活者の身の丈に合わない買い物でありました。でも身の丈に合わない買い物をしろとMZが言ってた。これは罪悪感から逃れるための言い訳です。
 でもこれで歩けるようになればいいなぁと思いながら、多少キツめかなと思えど歩き心地は今持っている靴の中でも一二を争う良さの靴の具合を味わっていたのですが、昨日からの強行軍のせいか3時間購入を迷っている間に頭痛を発症。購入時にはかなりの痛みとなっており、そのせいで金額の記憶が曖昧です。ついでにクレカの暗証番号がわからなくなって使いたいカードが使えなかった。いやこのカードはもともと暗証番号がわからないカードだったのかもしれない。確認しないとならないかもしれない……そんな余計な不安もおまけでついて、頭痛は酷くなるばかり。美味しい夕食を食べることはできましたが頭痛は消えず、病院処方のロキソプロフェンも効果はなく、あえなくその後の予定を潰して横になる始末でした。
 たった2日、外出して歩いただけです。靴の購入という難しい選択はしましたが、体を痛めつけるような労働をしたわけではありません。それでも2日連続で稼働し続けるだけで、この体は薬も効かない頭痛を訴え始めます。
 知ってた。知ってたけれども、やっぱりそうなると悲しい。極端な体力低下や精神的な緊張もあるのでしょうが、もしかしたら整体的な問題かもしれません。だとしたら絶望的すぎる。なぜなら今まで整体がちゃんと効いたこともなければ整体は大変お金のかかる治療だからです。整体に行かないための自己治療としての運動やストレッチは体を痛め、何より継続的な課題は精神に極端な負荷をかけます。習慣というものを全く持たず、継続ということが何よりも苦痛な人間の末路です。
 こうしてお金を使うと弾みがついてちょこちょことお金を使ってしまうのですが、実際(頭痛による判断力低下もあり)使ってしまったのですが、収入が低い水準で固定されている人間にとってこれは自殺行為です。でも同時に健康な人のように働くことは不可能である事実も突きつけられて未来への希望はありません。このまま一生、細々と年金だけで生活していくのかもしれない、と一日に何度も考える絶望を、楽しい時間にも味わうことは、非常に耐え難い苦痛であります。
 ともあれ、それは日常的にある苦しみとして受け止め、頭痛は得たものへの対価としましょう。そう書き記すだけでも何かが救われるだろうと信じてnoteを書いています。
 買った靴はとても良かったと思います。数日経ってやっぱり合わない、失敗した……と思う未来を想像する鬱病患者は、ひとまず口先だけでもポジティブめいて今日の眠りにつくのです。

 ここでタイトルに帰ってくるのですが、今日の酷い頭痛は8時頃にはある程度回復したものの、その後の余韻で結局日付が変わるまでソファで寝ている状態でした。痛みの余韻だけで3時間以上も無駄にしたわけです。今も残滓は残っていて、痛みというほどではないものの、もやもやと違和感のようなものが残ったままであり、それがまた気分を憂鬱にさせます。
 良い靴を買って気分は上向いていたのに、頭痛がその全てを押さえつけ、その後の活動意欲まですべて奪っていく。しかもその時にはMAXの痛みではなく、残滓。痛みの記憶です。痛かったという記憶だけで、その後のすべて、再び眠るまでの生命を損なうのです。恐ろしいことです。
 これはもしかしたら、特別激しいことをしているわけでもないのに勝手に痛みだした経験が新鮮すぎて、そうして横になっていないとまた同じように痛みを繰り返すかも、またはぶり返すかも、と無意識から思っているのかもしれません。
 そんなわけで、今は半死半生状態です。だけれど辛うじて生きているので、また今日は昨日に続いて歩いていたため、noteが書けました。
 そうしてもうこんな時間になりました。明日は労働です。生きていられるのだろうか?
 明日も歩くので、頭痛や憂鬱に負けずに辛うじて生きていたら、またnoteを書きたいですね。

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