デザイン思考を勉強中の私が、討論番組を見て思ったこと

未だにときどき、政治に関する討論番組ってあると思う。
最近目にするといつも、えもいわれぬ違和感を持ってしまうのだが
それはなんなのだろう?と考えてみた話。

討論番組は、いわゆるディベート形式に近いと思う。
ディベート形式というと、「日本は年金制度を続けるべきか?」みたいなある命題にたいし、「Yes」,「No」の意見に参加者が分かれ、双方が自分の意見を訴え、もう一方を説得し、論破しようとするイメージ。

純粋に、批判されると傷つく

私がかなりメンタルが傷つきやすいのはそうなのだと思うけれど(笑)、純粋に誰かが誰かに真っ向から批判されているのを見るといたたまれなくなってしまう。(蛇足だけど、深夜にたまたまラップバトルの番組を見てしまったときも私は同じ気持ちになってしまう)

討論に参加する専門家は自分の意見に多くの根拠があり、プライドと誇りを持って発言するので批判など意にも介さないのだと思うが、
デザイン思考を勉強していると、ワークショップの随所に参加者が意見を批判されることで、自分の意見を抑制してしまうことを徹底的に防ぐ工夫がなされているので、この辺りは正反対だよなあと思う。

YesでもNoでも表現できないこと

YesとNoで一括りにされている討論の参加者だが、ほとんどのケースにおいてその参加者がYes、もしくはNoと回答する根拠は違う。
さらに話を聞いてみると条件付きのYesだったり、それってほとんどNoじゃないの?みたいなことがある。
Yesと答えた人の中で認識がずれていて言い合いになるなんてこともある。
「Yes」「No」という表題は一見してわかりやすいが、それが相互理解につながってない違和感、ということなのかもしれない。

結末に残るもの

授業のディベートだったらなんらかの勝ち負けのようなものがあるかもしれないけれど、討論番組で議論されるような難しいお題に、限られた時間で「Yes」か「No」という結論を導き出すなんて初めから無理なことなのであって。
参加される方も実施する側も結論を出そうなんて思ってなどいないとは思うのだけど、互いの意見を否定する形で意見が発散して、何も収束せず終わってしまうことに、わたしはとても気持ち悪さを感じてしまう。

会議をファシリテートする場面では、何はともあれその時の結論と、追加で検討しなければならないことといったアクションアイテムと期日を確認してその場を終えるのが鉄則である。

私の感じる気持ち悪さは、議論がなされたのに後に何も残っていないそもそも目的も不明確で未来へのアクションが何も生まれていない、そのことなのだと思う。

様々なバックグラウンドから様々な意見を持った人が、相互理解を深め、それまでなかったアイデアを編み出し、未来へつなげていく。
そういう討論があったら見てみたいなあと思ったのだった。

ジャリ銭投げてくれたらうれしいです!