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舞台上での心の在り方

僕が舞台上にいるとき

稽古でも、公演本番でも
人前で何かをする時

たまに他の劇団員から
「こうちゃん(僕のことです)はどういう風に舞台上に立ってるの?」
という意味合いの質問をされるので
それについて書こうかなと思います。

……

めっちゃ久しぶり、今年一発目、二月半ばで
だいぶお暇頂いてました、ごめんなさい。
またどうぞ、よろしくお願いします。

で、ですね。

僕は割りと、ちゃんと相手を見たり、受けたり出来てる
と、思われることが多いみたいです。

芝居というのは、自分発信のactionではなく
あくまでも、相手がいるものだから
相手が台詞を発していなくても、動いていなくても
何かを感じて、受ける=receptionすることで成り立っている、という考えに基づいて話しますね。

だから
action、ではなく、reaction、です

台本だろうが即興だろうが、相手が予定にない台詞や動きをしても
その場の流れで合わせたり
相手に乗っかったり
突っ込んだり

そういうのを稽古でも本番でも
団員のみんなにはよく見られてるからなのかもしれません。

けど、それは特別なことじゃないはず。
日常会話なんか即興の連続。
台本があるのが不自然。

ほとんどの人が、その場その時の瞬間瞬間を生きているはず。

けれど、芝居だ!ってなると
途端に出来なくなるから不思議ですよね。
意識の持ち様が変わるんだろうなと思う。

舞台上では、その登場人物たちの日常を見せるものだと思ってます。(基本的には。例外も多々有り。)

そのキャラクターが何を食べて、どう過ごして、そのキャラクターにとっての日常をいかに生きているかを再現する。

限りなく、リアルに

例え時代が違っても、人間でない存在でも、どんなに自分と違っても。

ですから、舞台上でやることは、日常の再構築。
見る人からは、非日常に見えたとしても、舞台上のキャラクターにとっては日常という意味で。
もちろん、舞台は見世物であるから非日常的なドラマや展開になることはありますが、そういうのはここでは割愛して。

なので、舞台上(芝居でも、実生活や会社の何かしら)で

「面白くしよう」
「上手くやろう」
「見世物としてやろう」
「ちゃんとやろう」
「間違えないように」

とやってしまうと

そんなことを考えているときは、たぶん舞台でも日常でも上手くいかない時があるのかもしれないと思う。

仕事のプレゼンや発表なんかでも、「上手くやろう」、「ちゃんとやろう」ということばかりにフォーカスしてしまうと、本当に伝えたいことや内容が疎かになったり

大切なのは目的意識
何故そこに、その時、自分が在るのか

ちゃんとやるため?
上手く見せるため?

違うはず

伝えるべきもの
伝えたいなにか
それを持っているはず

舞台上も同じ

僕たち役者がやることは
その場を、その時間を、その瞬間を、
生きること

これに尽きると思う

……長くなってしまった…

えーと、結局僕がどんな風に舞台に立っているかというと

特に、何も、考えていません

もちろん、頭は働かせているし
状況把握をしようとしたり
流れを感じ、周りの人の挙動に気を配ったりしてる
……はず。

それに加えて即興芝居をやるときなんかは、この後の展開の出来る限りのパターンを考えたり
どんな方向に進みそうか
どの方向に進んだ方がより面白くなるか
他の人の発言で使えるネタがないか
今このメンバー、状況、流れを踏まえた上でどうエンディングに向かうか

けど、そういうことを考えてはいるんだけれどやっぱり

特に何も考えてない

という答えになってしまいます。

舞台上で相手と芝居をやっている自分
そして舞台上の自分を俯瞰的に見ているような自分
二つの感覚がある、そんな感覚がある

舞台に没入している自分と
冷静に客観視している自分と

言うなれば

冷静と情熱の間

本当にそんな感じ

上手くまとまってない文章だなー……

まあ、もし直接お会いできる方は

聞いてもらえばまたお答えしますので

今回はこの辺で…。

なんか

そんな感じで、舞台に立ってます

白田昂己でした

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