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バリアフリーと慈悲心(19)



 この文はマイノリティ、特にその一つである色覚障碍の人にとっての、バリアフリーの社会になることを願って書いています。
 最近その事からズレている気もするので、最初の部分にこの文をいれます。
 今回は色覚障碍の事とは離れてしまいました。

 バリアフリーなんてのは、自分以外への、思いやり、慈悲心があれば、自ずとできるように思うが。
 最近、家族でキャンプに行く人が多いと聞く。
 小さい時に、虫取りをしたり、魚釣りをしたり、自然の中で遊んでいた親が、子供を連れて野山に行き、美しい花を見て感動しているのと、枝を折ったりして持って帰るのは違うように、親がする虫や、ほかの生き物の扱い方によって、子供も影響される。
 こんな親に限って、ウチの子は違うけど、自然に接していない子供は、何も知らないとか言う。
 そんな大人に昆虫の羽根は何枚あるか聞くと、ほとんどの者は4枚と答える。(誰でも知っている昆虫で2枚のものもいる)植物の葉のつき方や、いろんな花の花びらの数の関係なんてよく見たこともない。
 結局、花でも虫でも自分のものにしたいだけで、もって帰って死なす人も多い。
 これでは慈悲心なんて学習できない。
 学校でも、例えば5年ぐらいの算数の授業で、比について習い始める時、自分と相手の持っているお金の比が2:1とは、自分から見た相手の持っているお金は半分でも、相手から見ると2倍で、相手のことを考える見方である。とすると慈悲心の様なものと関連して教えられるのでは。
 親は子供に、良い点を取らせ、偏差値の高い高校から、偏差値の高い大学に行き、大企業に就職し、地位を得て退職して、する事がわからない人は多い。
 これでは自分から進んで、次世代のスーパーロボットができるまでの、作業ロボットの役割をしている様なものではないか。
 バリアフリーの考え方なんてのは、相手のことを常に考える者が、もっと多くならないとやって来ないのか。
 でもそういう人が一定以上になると、流れが大きくなり、変化するかもしれない、と願っている。

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