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「印」

◇約20年間、ある作家の本を読み続けている。

廃盤も結構あるけど全書籍の7割くらいは読んでる気がする。気に入った本は、たまにパラパラと何度でも繰り返しページをめくる。

それだけ読み続けているから当然影響も少なくなく、初海外でノープランのインド旅を決行したのもその作家の影響だった。

インドではトラブルしか無かった為、日本に帰ってきたら全ての出来事が些細に感じた。

日々の大小のトラブルに人があたふたしている様子を見聞きしても「別にそれで人が死ぬわけじゃあるまい」と、帰国後すぐに職場からトラブルの電話が鳴った時にも思った。


◇それから暫くの間、あまりにも自分が落ち着いて見える様で「ブッダにでもなったのかと思った」と言われもしたが、当然そんなわけでもなく単純に帰国してホッとしただけだと思う。

インドの光景は刺激的だった。

人の欲望が剥き出しで、生きることに執着し、街中は人に混じり野良の牛や犬や猿が闊歩する。道路の舗装も所々やってあるぐらいなもんで土埃凄く、電車などは2時間3時間遅れが普通。物乞いはどこまでもついてくるし、ぼったくりも当たり前で、カースト制度で人が透明化している場面にも出くわす。

また乗ったタクシーのフロントにある「ガバメント」を冠したサインがピラピラとなびくから捲ってみたら民間タクシー会社と思しき別のサインが出てきた。要は看板を偽って営業していたわけだ。

ガンジス川で焼かれ煙をあげる死体など“死”とも隣り合わせの光景を見ると、生と死の実感がインドはあって、それは日本と比べやっぱり異質でありまた本質的な気もした。

自分探しとか、そういう事を考える人が割に日本人にある理由もこの辺なんだろうなぁと妙に納得もした。


◇そんな刺激的なインド旅に駆り立てた作家さんには何度かお会いした事、また話した事がある。

本からくる印象とは違った。また違和感とも違うが乱暴に表現するとどこか不思議な感じがあった。

それが何かと言えば「話すスピード」や「間の取り方」「間の長さ」が特徴的で非常にゆっくりある事が由来だった。

次の言葉の間に5秒と長い間がある事もある。

このテンポ感は普段の生活にないから不思議に思うも、そういうテンポの音楽を聴いている様でもあり「遅い」とは思わず聞き入ってしまうものがあった。


◇メールもネットも車も飛行機も基本やっている事は全部同じで「速度を早める」事をやっている。

だから便利になったとその時は思っても、世の中全体の速度も上がり単に全体的に忙しくなっただけとも言える。またそれを進歩とも呼んでいる。

経営はスピードと言われるのはこれの事で、砂糖は甘いって言うぐらい当たり前の事でもある。


◇そういう資本主義社会の経済原理主義の中で生きてると、速度を上げる為に色んなモノを切り捨て省略し、次第に人はそれを忘れていく。

そういう風に滾れ落ちてしまったモノを丁寧に集めているとスピードがゆっくりに見えるに違いない。本当にそれが“遅い”のかと言えば、ちゃんと見ればそれは違う事もわかる。またそれを芸術とも呼ぶ。

たまに経営者が芸術作品を集め出すのも、多分そこバランスを自然と取ろうとするからなんだと思う。

その作家さんの言葉が非常にゆっくりなのは物事を丁寧に集めて解釈しているからで、また言葉は人に対する「贈り物」と思っているはずだ。

人をある種“欺く為“に言葉を使う人もビジネスでは多い中で、普段の生活の中で“贈り物”という言葉の使い方をする人があまりにも少なくなってしまった。

それが現代の不幸の一つだと思う。




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