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「全」

◇ボチボチ通っているラーメン屋さん。ピークタイム外したが店内ほぼ満席だったのは誤算だった。

店内奥、高校一年ぐらいの男の子が3人ワイワイ部活の話をしながら食事の提供を待っている。自分の隣には同時に入店した40半ばくらいのおじさん。

先に商品が提供された学生3名つけめん大盛りライス付き。後に時間差で自分と隣のおじさんにラーメン並が提供された。

しかし先に食べ終わったのは、人一倍食べるのが遅い自分だった。


◇学生3名は商品提供後も会話が止まらなかった。

一口食べては手を止めて、また笑いながら会話を始める。会話に間ができるとスマホで何かをチェック。また一口食べては、手を止めて会話が始まる。笑顔の口から咀嚼された物が見えている。

隣のおじさんスマホを箸立てに立てかけ動画を見ている。自宅でTV見ながら食事するのと同じ感覚なんだと思う。

あまりに動画に夢中なおじさん、ラーメンすする度に曲がる肘が自分の腕に何度も触れる。その度におじさんハッとするけど、すぐ忘れてまた動画に夢中になる。そしてまた肘が当たる。流石にキモかった。


◇退店する際に学生を見てみると案の定まだ半分ほど残っている。麺は乾き、ツケダレは冷め、ライスも同じ。未だ会話は盛り上がる。

これではラーメンが可愛そうだなぁと思った。

しかし彼らにとってそれが普通であり常識であり楽しい青春の1ページと信じて疑ってないと見える。純粋無垢な笑顔がそれを物語る。


◇「好きに食べさせてほしい」

先日、SNSに投稿されたラーメン屋さんの「食事中はスマホとイヤホンを止めて欲しい」のお願い事に対しコメントは肯定と批判が入り乱れた。中でも「好きに食べさせてほしい」には辟易とした。

自宅で自分一人食べるならまだしも、あなたは人の家で飯を頂く時にその家の人を差し置いて自分だけ好き勝手に食わせろと言うのだろうか?

家でなく店だし金払っているからいいだろうと言うのなら、貸切で1日ぶんの売上を払ったらよろしい。10〜40万ぐらいだろう。他に客がおらず自分一人が客なら誰も文句を言うまい。自分一人なら。


◇しかし変なコメントが出てくる事は構造としては理解できる。

彼らにとっての“当たり前”は普段の生活の中にあると思う。

学生3名は
家でも食事中はスマホ優先
料理はUber eatsで届き
頂きますご馳走様は無駄だから削除
咀嚼の口の中を見せて喋り
余った食べ物はゴミ箱に躊躇なく捨てるのが「当たり前」かもしれない。

それならば仕方あるまい。正に多様性の時代。内の普通は、外の世界でも普通であるべきだし受け入れらるべき。

「多様性」「個性を大切に」そう言われてきたからしょうがない。多様に個性が大切にされている。おかげさまで“共通”の当たり前が減った。


◇今では茶碗を置く位置は左でも右でも良いと言うのが常識になりつつあるらしい。「そんな細かいことはどうでも良い」のだと言う。

だとすればその内に、渡し箸が効率的で、寄せ箸が生産的で、迷い箸はkawaiiになるかもしれない。

日本の作法やルールの在り方は「個人」にあるのではなく「集団」にあったと思う。食に限らず。

国土狭く単一民族に近い日本人にあって、共に生きる為に必要だった集団の論理。それは時に命に関わるから“共通”の当たり前だった。

けど良い事ばかりでもなかったから村八分という言葉が残っている事は前提、その“共通”の決まり事が共同体をスムーズに動かしたという事実もあっただろう。

「ご飯茶碗が左で味噌椀が右」

そう決まっていれば外に行っても内に招いても、恥を掻く事もないし、失礼をする心配もない。それこそ効率的だし合理的だったと思う。


◇ラーメン屋さんの小さな「お願い」に反発が出る理由がここにある。

“共通”する意識があれば「わかりました。そうします」となるが、そうはならなかった。なぜなら現代には個人主義という前提がある。

長年に渡り、個性を大切にし、多様性を受け入れる、そう言われ続けた。そして個性も多様性も個人主義に繋がった。だから「自分を受け入れない社会がおかしい」そうなる。それであれば承認欲求を満たそうとする人の多さも説明できる。

ラーメン屋さんは複数人で行くより個人で行く事が多い業態。よって、その傾向がより前面に出た。ちょっとした「お願い」に文句を言う人の多さはそれで説明できる。


◇ハワイで「おれは日本人だ!この国の法律は適応されない!だから道を歩きながらビールを飲む!」そんな事を言った所で問答無用に逮捕される。

インドで左手使って飯を食えば「うわ…こいつヤバい…」という排泄物を見る様な目で見られる。

つまり食事のマナーぐらい守りましょうって話。












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