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「森」
◇蝉が鳴いていない夏は“ただクソ暑いだけ”という感じで夏らしさを感じない。
四季折々に動植物の営みが音や匂いや手触りとなり、それぞれが古来から日本人の五感を刺激し季節の到来を全身で感じさせていたのだと思う。
だから“季語”がある俳句が生まれたんじゃないかとも思う。
それならば日本の芸術は季節の多様さ、自然が生んだと言っていいと思う。
◇自然は徹底して排除される。
特に都市部では家の中に一匹虫が出ただけで騒ぎになる。同じように店舗に虫が迷い込んできてそれにクレームする人すらある。
自然を徹底して排除する事。街づくり、住居づくり、それ以外に人の意識の中でもそれが起きている。虫なんか居てはいけないと思っている。
いるよ、虫ぐらい、そう思う。
虫は可愛くないから要らない。犬猫は可愛いから要る。鳥とかは法律で決まってるからしょうがない。猪や熊は山の中だけならOKだけど人がいる場所はダメ。
人間以外の生き物への捉え方は大体そんな感じじゃないかな?
◇テレビドラマがやってると「うるさいなぁ」と思う事がよくある。今までは自分自身がテレビを観ないからだと思っていた。
けど、それは間違いだと、ある日気がついた。
少しテレビに目をやると「セリフだけで」間を埋めている事に気がついた。大量のセリフの量感でドラマが肉付けされている。セリフだけの表現をするものだから声の高低やトーンやボリューム、ワードチョイスも大げさになり慌ただしい。
身振り手振りなど身体の動きは「セリフに取ってつけた」ような「セリフに合わせてしょうがなく付けた」という、そんな印象で、それはやはり不自然に写る。
その不自然さとセリフの慌ただしさが、視聴側の感情を強く揺さぶりたいという意図を伝えるから、それを「うるさいなぁ」と感じていたわけだ。
◇セリフに重きが置いてあるのには様々な理由が複合的に絡んでいると思う。
何よりも大きいのは「身体の動きだけで表現できる役者が少ない」そうみて間違いないと思う。
仕草や所作、指の動き一つ、目の奥に映す希望や絶望、刹那、瞬間、間の取り方。
そういう表現が出来ない役者が増えたのではないか?だからセリフに重きが置かれる事になった。
また、視聴側としても身体の動きから感情を汲み取る事が苦手になってきた、というのも理由に挙げられると思う。
それが更に“大げさ”に拍車を掛ける。それは大げさじゃないと伝えられないから。
繰り返しだけど
“伝わらない”
じゃなくて
“伝えられない”から。
◇これは思うに現代は「何を言っているか?」が最重要な社会だからだと思う。
言葉は、不都合な真実より、心地良い嘘の方がいい。そういう意識があると思う。
今回の東京都知事選を見てもわかると思う。何をやってきたか、それはどうでもよくて、何を言っているかが大きく票を分ける。ある候補者は特にそうだったと思う。
そういう世の中だから毎日の様に多額の詐欺被害が報道されている。
何を言っているかが重要ならば、ドラマを2倍速で観る理由もわかる。身体の動きや所作や間は「どうでもいい」そう思っているからに違いない。
◇日々パラパラとめくる本がある。かなり古い本だから現代仮名遣いではなく少々読みにくい。
加えて内容はもっぱら自宅の庭について。四季、植えた木や花について。そこを訪れる動物たち、また近所の人々とのやりとり。どれも平凡で特に印象に残る話はない。
しかしそれでなぜか気が安らぐ。このリラックス感は、昨今のTVドラマとは真逆であると思う。大げさな言葉もないし、大げさな事件もない。
ただし“人らしさ”を圧倒的に感じる。
◇現代はネット社会でSNS社会。
情報化社会は成熟して「情報が社会そのもの」になった。だから「何を言っているか」が最重要になった。
音楽を“歌詞”で聴く人が多い。
昨今、若者が洋楽を聴かなくなってきたと言う。それが本当ならば、これも“情報”が最重要だから。情報は日本語ならば何を言っているかわかる。
詐欺被害が拡大しているのも同様の理由だと思う。言葉こそが重要なのだから。目は口ほどに物を言う、これはもう死語なのだ。
ドラマでセリフが重視され身体が無視されるのも同じ。
自然を無きものとするのなら、伝える手段は言葉だけで事足りる。身体の事はよく分からない。そう考える。
ドラマが不調と何年も言われている。
それはドラマが“人らしさ”という自然を無くしているから。言葉だけで定義できる程、人間は簡単に出来てない。
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