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広義のクリエイター、狭義のクリエイター

「私も「クリエイター」なの?名乗っていいの?」

今日は私なりにその疑問に答えたいと思っている。


noteは「クリエイター」のためのSNSらしい

私は今はアクセサリー制作・販売をしているからクリエイターっぽい雰囲気かもしれない。ただ、私という魂は正直そのアクセサリーだけでおさまるものでもない。

その部分を取り除いた私はというと、蓄積した記憶や一瞬の情感を書き綴るアマチュアエッセイストであり、ごくたまに小説や短歌をこしらえて披露しているnoter。

一般的な意味合いで言う「クリエイター」かどうかは怪しいラインだろう。


しかし最近の私は「クリエイターでありたい」気持ちが強く、クリエイターを応援したいという思いも強い。

今日は私の思う”広義のクリエイター” ”狭義のクリエイター”について私の思うところを書いておきたい。



広義のクリエイター

以前、Twitterでこんなつぶやきをした。

広義では、クリエイターとは自分の人生を生きようとしている人全員を指していると思ってます。

能動的な生き方、とも。ハードルが低いような高いような生き方だ。

では受動的な生き方って何か。何も感じていない状態ではないか。怒り、さみしさ、憤り。感じられなければ、何も始まらない。

感じていれば、救いはある。感じたことを、手帳に書く。noteに書く。たった一言でも、苦し紛れにでも、忙殺されていても、楊枝の先ほどの感覚でも、たしかに何かを感じている。そういう状態の人もひっくるめて、広義のクリエイターと捉えていたい。

私もnoteやブログを書く前は、たまらなくなると一人で泣くか、あるいはメールの下書きに「雑記」というタイトルでとにかく書き殴っていた。

その感覚を踏み潰しきらなかったから、今こうして文章を書けている。上手い下手の話ではない。アウトプットできているという意味で。

感じることさえできれば、その感覚を育てていけば、どんどん表現できるようになっていく。「私なんて」と思う人、新芽のような人。その感覚や表現はこれからもっともっと、大きな樹のように育って、誰が見てもクリエイターだと言われる人になる。

ただこれは、「誰が見てもクリエイターになることがいい」という意味ではない。「誰が見てもクリエイター」ではない人間の方が圧倒的に多い。

自分のためのアウトプットや、そのアウトプットを読んだり読まれたりする活動は能動的で。まさに自分の人生を生きている。人が、感じる心を持ちながら生きられることはそれだけれで、もう代え難く尊い。



クリエイターになれない時

文章を書ける人と書けない人の違いについてのお題をcotreeのひらやまさんが投げていたので拾わせていただいた。

書けない人がいるんじゃない。「書けない」は状態であって本来は誰でも書ける。どうしても書けない状態、それは外に一言も差し出すものがないくらいにダメージが深い時、完全に抑圧されてしまっている時などだろう。

そういう時は無理に書く必要はなくて。まずはそのダメージに向き合う方が先で。

傷が癒えたらまた「クリエイター」になればいい。書ける時に思いっきり書けばいい。

辛い体験は養分となって体の奥深くに蓄積している。ますますその樹は太くなる。


狭義のクリエイター

そんなわけで、感じるセンサーを失っていなければ全員クリエイターだと私は捉えているけれど、その枠におさまらない人たちがいる。

何よりも自己表現を重要視する人。生活の中で創作活動が一番大事な人。「どクリエイター」(仮)と呼んでいる。相変わらずのネーミングセンスだが仕方ない。

どクリエイターの魂は、自己表現で自分を癒すだけでは飽き足らない。周りの人たちに影響を与え、思想を与え、人の心を豊かにする役割があるから。どうしても、表現や創作がやめられない。


しかしながら私たち市民は、食べて寝て、何かして、お金を得ないと生活できない。今のところはそういうことになっている。

自己表現、創作活動、そういったものは、お金の問題をクリアしてからの話であって、それが前に来ていいものではない。

でも、お金の問題をクリアしている間の時間はそのどクリエイターはクリエイションできない。さらにはそれで疲弊してしまったら休みの日も何もできない。つまり、本来のその人の”仕事”であるはずのクリエイションが全くできなくなってしまう。

今日もまた、膨大な数のどクリエイターの生まれても良かったはずのクリエイションが窓から飛んでいく、生ゴミと一緒に捨てられる、ベッドにしみこんでいく。日常茶飯事すぎてもう、誰も気づかないんだその嗚咽に。

今よりももっと本気で書きたい、創りたい、そう思うならその時間、つまりお金や体力を確保する必要があって、人生は止まらないし、巻き戻せない。結論、今この状態をどうにかしなければならない。


私自身は、エッセイや小説で一旗上げられるような気はしないけど。自分の感性を守って育てて豊かに生きられるやさしい世界を、一歩一歩作っていきたい。

そんな仕事もクリエイションと呼んでもいいんじゃないかな。



▼このnoteを書くきっかけになった、ちゃこさんのnoteはこちら。


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