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師弟について シェアする落語・シケのメモ[3]

宮岡博英事務所とくれば、数々の素晴らしい独自性の強い演芸会の企画で有名で、僕もときどき足を運んでいる。ここでないと楽しめない演芸が、確かにあるのだ。

この『甦る米朝、甦る貞水 桂八十八・一龍齋貞橘二人会』という企画も素晴らしい。時間が合えば行きたい。

けどね、この記事のこの書き出しについては異議申し上げたい。

昨今、演芸界で「師匠に似ていない弟子」が増えている現実があります。単なる業界入りのよりどころとして師匠を選んでいる人々が多い証拠です。

速報 師は水よりも濃く……甦る米朝、甦る貞水 桂八十八・一龍齋貞橘二人会 | 有限会社宮岡博英事務所のブログ

え。

談志って五代目小さんに似てましたっけ。
志ん朝って志ん生に似てましたっけ。

落語界に関して言えば、似てない師弟なんか昔から山ほどあるでしょうに。

落語家の師弟が似ない理由

肉体

まず肉体が違う。ここで言う肉体は声帯も顔も含む。
ハードウエアが違うのだからいくら修行したって、似ない。むしろ同じようにやろうとすると、うまくいかないことも多い。
いまは性別が違う師弟もけっこういるわけだから、そう簡単に似るわけがない。

師匠以外の落語家から稽古をつけてもらうことが多い

これについては驚く人も多いだろう。
落語家の世界においては、落語家が落語を教わるのは、師匠とは限らないのだ。
それどころか「師匠に教わったネタは一つだけ」みたいな方もけっこういる。
ふつうは「この噺を教えてください」と自分からお願いしに行くわけだけど、それが師匠とは限らない。
プロの落語家(ときに、講談師や浪曲師も)であれば基本誰でも良くて、「いいよ」と言われれば稽古つけてくれる。教わって、自分で稽古して、みてもらって、OKもらって(これを「あげてもらう」という)自分の持ちネタとなり、人前で披露できる。自分の師匠でなくても、同門でなくてもいい。教える方・教わる方の当人同士が良ければいい。

師匠も師匠で、自分で教える代わりに「あの噺はあいつに教えてもらえ。この噺はあいつだ。俺が話つけておく」と、ほかの落語家に弟子の稽古を依頼する方もいる。「師弟が似ること」が大事なら、こんなこと、しない。むしろ「似ないようにしている」みたいだ。

そもそも似ない方がいい

「似ないようにしている」
そうなのだ。似ないほうがいいということもあるのだ。
師匠に似てしまうということは「師匠の劣化コピー」とみなされてしまうリスクがあるからだ。
複数の落語家が出演するひとつの寄席興行の中で「似たような落語家」はいらない。客を飽きさせないためにもバリエーションがあったほうがいい。

師匠である家元・立川談志のブラジル公演に帯同した立川談四楼師匠は、師匠の前方で高座を務め、降りてきたところで談志師匠に「同じようなのが、また出てきたと思われるだろうな」というようなこと言われたという。
これをきっかけに談志楼師は「談志から離れる」ために、談志が演らない噺を積極的に手掛けるようになり、談志はそのなかの『柳田格之進』を褒め、さらにアドバイスしたという。

それでもどこかは似てしまう

このように、落語の世界において師弟が似ていないことはいくらでもあるし、似ないほうがいいくらいなのだが、それでもどこかは似てしまう。

そりゃそうだよね。
惚れて頼んで許されて、人生すべてを預けた人だもの。

宮岡氏が「単なる業界入りのよりどころとして師匠を選んた、師匠に似ていない弟子」(誰のこと?)だって、よくみると、どっか似ていることがある。なんというか、ふわりと香るのだ。

まるで師匠と違う弟子の落語の中で、ふと香る師匠ゆずりの芸。こういうところにわれわれ落語好きはぐっとくるわけですよ。
〇〇一門会なんてのがあると、みんなちっとも師匠に似ていない、バラバラな個性が次から次へと出てくるのに、なんみんなちょっとずつ師匠の芸がちらちら見える、香る。そういうのがいいわけです。

とおもうんですけどね。どうですかね。

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