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過去は変えられる

「他人と過去は変えられない。変えられるのは自分と未来だけだ」
という話をよく聞く。
私自身、大学で曲がりなりにも人材育成という教育に携わり、約40名を統率する小隊学生長なるものを任されたこともあって、人をいかに教育するか、統率を取るかについて、勉強させられた。
その時にもやはり強く感じたのが、人は変えられない。変えられるのは自分だけだということだった。
これに関しては、本当にすべてのことに当てはまる。

自分がやりたいこともそうだ。基本的に私は過去の経験があるので、人に期待をしていない。それは悪い意味ではなく、単純に当たり前の話で、自分がやりたいことに対して、同じ熱量でやれる人間なんているはずないのだから、期待のクソもないのだ。

例えば、「いや俺、レゴブロックで、組み立てる式のやつあるじゃん?あの恐竜とかワニとかをプラモデルみたいに組みたてるやつ。あれのさ、二つをごちゃ混ぜにして、Tレックスワニ作りたいんだよね、だからさ、明日の朝6時から、22時まで空けといてくんね?」と言われたら、いやこいつのTレックスワニに対する熱量なんやねんと、付き合ってられるか、となるわけで、これは極論だけど、これを空き家に置き換えて考えてみると、「いや俺、負の不動産だったものが、少し手を加えるだけで息を吹き返して、そこからまちづくりが始まるのを当事者として見たり感じたいんだよね。」と言ったら聞こえはいいかもしれないし、同調してくれる人もいるかもしれないけど、でもそれは自分のエゴであって、人に同意を求めるものでも、協力を得るものでもないと基本は思っている。

だから、私はいつも「私は1人でもやります。でも面白いと思う人がいたらいつでもウェルカム、一緒に作りましょう」と言っている。
同じ意思を持つ仲間がいると楽しいに決まっている。その楽しみも人一倍知っている。

人が変わらないことはここまでで書いた通りだが、「私は過去については変えられる」と思っている。過去を変える?は?もう終わっているのに?
という本題に入るまでに、少し余談をしよう。

ちょっと余談だが、こんなにチャランポランでお調子者の私がなぜ、小隊学生長を任されるにまでいたったか、もっと言えば私は大学1年生の時から、人の前に立つことを推薦され、さらにさらに遡れば、私は中学から生徒会長、高校ではクラス委員長、なにかと人の前に立たされる機会が多かった。ほぼそうだったと言ってもいい。

いい機会なので、この三原市地域おこし協力隊という立場で、仮にリーダーを選任するなら、という仮定で言語化してみる。

リーダーに選任されるということは、上司から好意的に見られている必要がある。もちろん、同期間でもやっぱりあいつだよな、みたいなのは多少ある。しかし、圧倒的に上司だろう。
では、上司はどんな人をリーダーに選ぶか。私は「真面目な人」だと思う。
あいつ、なんだかんだ真面目なんだよな、と思わせる必要がある。

ここで、この三原市地域おこし協力隊で真面目点を仮につけるとしたら、恐らく一位はシャジム。だと個人的には思う。
そして次に私やしばっちだろうか。
これは何かというと、このnoteをちゃんと更新してる頻度だ。
もちろん月の提出物もあるので、絶対とは言わないが、あまり差のつけようが無いと思うので、このnoteの更新が結構重要な指標であると思っている。
なぜなら、これは数字として出され、毎月の報告会でも耳にタコができるほど言われている案件だからだ。
役所の人(私たちの上司)は思うだろう。シャジムさん、四方さん、柴田さん、noteちゃんと更新してる、(真面目点ちゃりん)「あれ!?なんか聞こえた!?」
この点数の蓄積が、リーダーを選任するにあたって重要な指標となり、私やシャジムがしばっちが槍玉に上がるのだが、なんだかんだその中でも意見が言いやすい私が、そしてしばっちとシャジムは私はそういうの嫌なんでと言うので、私に話が来て、私はそういうの好きなんで、はい私がやります。となる。
(※三原市地域おこし協力隊にリーダーはいません。空想の世界です)

とまあ、長々書いてきたが、私はそれを別に意図的にしてるわけではなく、多分根っこが真面目なんだろうなと思う。母親譲りだ。
基本無遅刻無欠勤
中学校の時から毎休み時間、めちゃくちゃ綺麗に黒板消ししてたし
別に大学時代も無意識にベットメイクはいつも綺麗だったし、4年になったらテキトーになる掃除も、私は一年生と一緒にトイレでブラシゴシゴシしてたし、それが当たり前だからやってただけなのに、なんだかんだ人に見られてて、なんだかんだ引き上げてくれた。もちろん私がリーダーになることを嫌だと思う人も一定数いたし、この性格だから、調子に乗っててうざいと思われることもあったと思う。でもそれが結果だ。

リーダーは人の上に立つ人間ではなく、人の前に立つ人間である。
いつも心に置いています。

このクソ長い余談を置いといて、それでは本題。
シンプルにいこう。

「過去は変えられる」
と書いた。
私がある人の名前の漢字を間違えたことから、この話になったのだが、
「名前の漢字を間違えられることが多かった」と、だけどその漢字が自分には似つかわしく無いと当時は思っていて、それがすごくコンプレックスだったと。普通に変換してしまうと、それが一番上位表示になってしまうので、よく間違えられたという話だったが、ここで私はこんな話をした。

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人はよく、過去は変えられない、未来は変えられると言いますが、私は過去も変えられると思っています。
私は一つのことに集中することができないことがコンプレックスでした。だからこそ、色んなスキルを学んで、たくさんの60点を積み上げることができました。
だから、過去のコンプレックスはその時は悔しい思いしか無かったけど、今の自分からすると、いい機会だったと、捉え方が変わりました。

見た目に関するコンプレックスがあった。だからこそ、今も綺麗を保てるのではないでしょうか。
同窓会であった人達で、当時綺麗だったのに、今は全然見た目に気を使っていない人もいると思います。
要は過去の経験から今があるなら、その過去の捉え方が変わるということです。

これからは、「○」とよく間違えられるのは、それは過去の経験があって今も努力しているからなのかもしれないと思ってもいいかもしれないですね。
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一部変えているが、捉え方を変えられることが言いたかった。
名前を間違えるなんて大変失礼なことをしたことは置いておいて、
ずっと過去を引きずっていても仕方ない。
これからどう生きるかによって、その過去は変えられる。

だから過去がどうだったかなんて、本当にどうでもいい。
大学で小隊学生長をやっていただ、中学では生徒会長をやっていただ、そんな話をする奴は本当に愚の骨頂。
だから何?今何してるの?が大事なのだ。

……え?( ・∇・)
特大ブーメランが…( ◠‿◠ )

ではまた。

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