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3.11 復興日記④「記録を残し、伝える使命」 南三陸診療所 歯科口腔外科部長・斎藤政二 Dentist Diary ―Recovery from the Great East Japan Earthquake 2011

 2011年3月11日、宮城県南三陸町にある、5階建ての「公立志津川病院」は4階まで津波に襲われ、甚大な被害に遭いました。
 週刊「日本歯科新聞」では2011年7月~2012年2月まで、歯科口腔外科部長の斎藤政二先生による、コラム「復興日記」をほぼ毎週、掲載しました。深い悲しみを抱えながら、仮設診療所「南三陸診療所」で、地域医療の復興のために仲間と取り組む様子を、静かに、そして熱く、時にユーモラスに記した文章は、読む人を励ましてくれるものでした。
 本コラムは「3.11歯科界の記録という書籍に収められましたが、東日本大震災から長い年月が経つ中で、より多くの方と記憶、記録を共有したいという思いから、全文を公開することにいたしました。
 ご許可をいただきました斎藤先生には、心より御礼申し上げます。
 なお、医療施設の名称や肩書きなどは2012年書籍発行当時のものです。

(文・写真ともに)
 公立南三陸診療所(現・南三陸病院) 歯科口腔外科部長
 斎藤政二

6カ月、今でも揺れている


 なでしこJAPANのオリンピック出場が決まった。ワールドカップで優勝し、国民栄誉賞受賞の後で、プレッシャーのかかったオリンピック予選。そういった中での粘り強い戦いぶりに感動し、心が揺れた。

 混迷を続ける政治は、野田佳彦新首相のもと内閣人事が決まったが、その8日後には鉢呂吉雄経済産業相が不適切発言で辞任した。相変わらず、国政の本質とずれている部分で大きく揺れている。

 東日本大震災の揺れはどうなったのだろうか。震災後6カ月が経過し、余震は明らかに少なくなってきて、ほとんど揺れを感じない。しかし、本当にそうだろうか。

志津川・沼田地区の仮設住宅(2011年9月16日撮影)

 左上ブリッジが脱離したとの主訴で来院した77歳女性が、話をしてくれた。
 震災後は、さいたま市の親戚の家で避難生活を送っていたが、最近になってこちらに戻り、仮設住宅で一人暮らしをしている。震災当日はだんなさんと病院に避難してきて、一緒に夜を過ごした仲間である。しかし、息子夫婦はあの日、家の戸締まりをするといって、津波に流されたらしく、いまだに見つかっていないらしい。そして、一緒に避難しただんなさんは避難先で亡くなられたとのこと。
 一人でこちらに戻ってきたが、仮設住宅は隣町にあり、当診療所へは約50分かけて送迎バスで来てくれた。プレハブの外で長時間待ってくれたにもかかわらず、ブリッジの支台歯が残根状態で抜歯適応、また長期服用しているビスフォスフォネート剤や最近の心臓病状態の把握のため、他科主治医への照会の必要があることから、初回診療は話をするだけで終わった。

 でも、この患者さんとは話ができて良かった。
 8月には仮設住宅がすべて完成し、復旧復興に向かって確かに前進しているようにも思えるが、被災者の心はいまだに揺れていることがよく分かった。そして医療という立場から、さりげなく被災者の心に触れて、話し相手になることも重要な役割だと感じた。

 体感振動が少なくなりつつある震災後6カ月、目に見えない心の揺れ・不体感心動はまだまだ続いている。長期的な心のケアが必要だ。

 インフラの整った仮設診療所を建築する計画が、町議会のもつれから遅れているらしい。雪が降る前により良い仮設診療所へ移ることを目標に、この残暑や台風などに耐え、病院職員は一丸となって働いてきたが、このままでは来年の春にもずれ込みそうだ。 職員の心は怒りに震えている。

(日本歯科新聞2011年10月4日号)

 南三陸町のカタチ

 リアス式海岸は、地学事典(平凡社)によると「起伏の大きい山地が、地盤の沈降または海面の上昇によって、海面下に沈んでできた海岸。一般に海岸まで山地のせまった半島と、その間に挟まれたおぼれ谷とが直交し、鋸歯状の海岸を形成する」とある。 宮城県牡鹿半島以北から岩手県宮古湾までの海岸線は、確かにノコギリの刃やサメの歯を見るように、どこも同じような形をしている。 平地が少ないことから役場や病院のある町の中心は、どこも入り江のすぐ近くにある。当然、幹線道路や鉄道も海岸沿いに作られ、住宅が密集する。 そして、その密集住宅地は、湾口より幅が狭い場所にあるため、津波被害は増幅する。なるほど、津波と被害状況には地理的整合性が認められる。

 南三陸町は、総面積164平方キロメートルのうち津波浸水面積は10平方キロメートル(国土地理院資料)、6.1%であったが、浸水範囲内人口は1万4389人(総務省統計局資料)と推計されていて、総人口1万7,666人の81.2%にもなる。 これらのデータからも、海や川沿いのわずかな平地にほとんどの人が生活していることがよく分かる。

 震災後、南三陸町はテレビや新聞などで取り上げられるようになり、その廃虚となった町並みや防災庁舎などは、多くの人が知っているだろう。しかし、南三陸町が同じような形態のリアス式海岸が多くある中で、どこに位置して、どのような形をしているかを知っている人は少ないと思う。 

黒い部分が南三陸町。指を曲げた手の形に似ている


 そこで、南三陸町を全国の皆さんに知っていただくために、地形の表現方法を考えた。まず、左手で双眼鏡を持つときのような形を作る。その後、親指を水平にして、同時に人さし指を中指に対してクロスさせる程度にわずかに伸ばす。
 少し強引だが、この左手の指で形成される外形線が南三陸町の形だ。人さし指付け根の手のひら側に、公立志津川病院、町役場そして防災庁舎などが存在した。

 10月に入り、「栗を食べたら差し歯が取れた」と来院した患者に秋を感じる。朝夕の冷え込みも秋めいてきたが、医療再生の加速度も冷え込んできた。
 しかし、ここにきて、東日本大震災の経験を伝える講演や、執筆依頼が全国から来ている。力及ばずとも基本的に断らず、受けることにしている。
 50歳を過ぎてからは、とにかく物忘れが激しいが、記憶が風化する前に、記録として残す使命がある。週末や休日は、写真整理やスライド製作など、できる限り机に向かっている。

 食欲の秋、勉強の秋、記録の秋である。

(日本歯科新聞2011年10月11日号)

東京で講演……暗闇の“あの日”に戻る


 11月12日に講演のため東京へ行った。
 講演に備え、パソコンを購入し、震災後の南三陸町歯科医療再生についてスライドを作製した。
 久しぶりにスーツを出して準備万端のつもりでいたが、出発2日前に旅行用キャリーバッグが車ごと津波に流されたことに気づいた。雨の日の傘と同じで忘れることはあり得ない旅行バッグを、慌てて出発前日に購入した。

 久しぶりの大都会東京だ。もちろん何度も行ったことがあるが、被災後に行く東京にひときわ胸が躍る。
 自宅のある石巻から仙台までは通常JR仙石線を利用するが、震災により一部不通となっているため、車を運転して行った。
 そして仙台からは新幹線「はやぶさ」で東京へ。はやぶさというネーミングはもちろん鳥のハヤブサから来ている。
 いかにも速そうで、すばらしい名前だと思うが、私にはハヤブサとワシ、タカ、トビの区別がつかない。大きさの違いと聞いたこともあるが、空を飛んでいると大きさなど分かるはずもない。
 確かなのは、羽をばたつかせず悠々と空を飛ぶ姿、猛禽類で小動物を食すること、そして山の多い南三陸町にこれらの鳥のいずれかが多数飛び回っていることだ。
 以前から興味があり、「あれはタカかな、トビかな」などと空を見上げていたが、さすがにイヌワシは東北楽天ゴールデンイーグルスのクラッチ&クラッチーナ、ベガルタ仙台のベガッ太君でしか見たことはない。
 講演会場の近くにある水道橋駅で電車を降り、少し歩くと目の前に東京ドームが現れた。くしくもSMAPのコンサートがあるとのことで駅前から女性でごった返していた。鳥が飛んでいるかなと上を向いて歩こうとしようものなら、人とぶつかってしまう。

JR水道橋駅から見る東京ドーム(2011年11月12日撮影)

 すれ違う人々の着飾った姿と香水のにおい、そしてすぐ目の前の所に行こうとするのに真っすぐ歩けない立体交差に都会を感じた。同時に、ビルのガラスに映るくたびれた自分の姿には、「ドキッ」とするくらい田舎者を感じた。
 SMAPは8月24日、南三陸町歌津中学校にいきなり登場して、被災者に胸のときめきと目の輝きを与えてくれた。私は特にファンでもない中年おやじだ。
 しかし、東京ドームでは間違いなく5万5千人ものファンを熱狂させるスーパーアイドルが、過密スケジュールの中お忍びで南三陸町に来てくれたことに、心から感謝したい。コンサート開演中の熱気あふれる東京ドームを見て、そういう気持ちになった。

 講演会場の文京シビックセンター26階スカイホールは一面がガラス張りで、夜景のきれいな所だった。
 震災後、南三陸町に医療支援活動に来られた文京区歯科医師会および小石川歯科医師会の先生方にあらためてお礼を申し上げ、スライド講演を始めた。

 会場が暗くなり、臨場感あふれる雰囲気の中で、講演中の私は、あの日の真っ暗な志津川病院5階会議室にワープしていた。

(日本歯科新聞2012年1月31日号)


本コラムは下記の書籍に収録されています。


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