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3.11 復興日記⑤(終)「2011年の終わり、そして始まり」南三陸診療所 歯科口腔外科部長・斎藤政二 Dentist Diary ―Recovery from the Great East Japan Earthquake 2011

2011年3月11日、宮城県南三陸町にある、5階建ての「公立志津川病院」は4階まで津波に襲われ、甚大な被害に遭いました。
 週刊「日本歯科新聞」では2011年7月~2012年2月まで、歯科口腔外科部長の斎藤政二先生による、コラム「復興日記」をほぼ毎週、掲載しました。深い悲しみを抱えながら、仮設診療所「南三陸診療所」で、地域医療の復興のために仲間と取り組む様子を、静かに、そして熱く、時にユーモラスに記した文章は、読む人を励ましてくれるものでした。
 本コラムは「3.11歯科界の記録という書籍に収められましたが、東日本大震災から長い年月が経つ中で、より多くの方と記憶、記録を共有したいという思いから、全文を公開することにいたしました。
 ご許可をいただきました斎藤先生には、心より御礼申し上げます。
 なお、医療施設の名称や肩書きなどは2012年書籍発行当時のものです。

(文・写真ともに)
 公立南三陸診療所(現・南三陸病院) 歯科口腔外科部長
 斎藤政二

忘れられないこと、忘れてはいけないこと

 冬になり、「干し芋を食べたら、歯がもげた」という老人が来院するようになった。すっかり寒くなり、外に設置してある手洗い場の500リットル給水タンクも凍りそうである。
 給排水設備のない診療所で特に注意しているのは、感染対策であり診療器具の滅菌である。使用した器具はアルコール綿で拭いた後、一次滅菌としてテゴー51消毒薬(アルキルジアミノエチルグリシン塩酸塩)に約15分間浸漬させる。その後、外の手洗い場で水洗し、最後に高圧蒸気滅菌器にかける。手を洗うだけでもつらいのに、この際の器具水洗は過酷だ。
 もっとも私は、その作業をしている歯科スタッフを見ているだけであるが、この状況を少しでも改善させるために、ICコントロールヒーターという湯沸かし器具を使うことにした。

 このヒーターは水の中に入れて使う、いわゆる電気棒で、水温を30~100℃まで設定しお湯を沸かせる優れものだ。このお湯で、手洗いや器具水洗後、凍りそうになった手を温めることにした。
 震災後に静岡市で開業している後輩から頂いたものであるが、4月12日までガスが復旧しなかった石巻自宅では、これを利用して約3週間ぶりに風呂に入ることができた。冬眠から覚めた動物のような気分、そしてこの上ない快感は、今でも忘れられない。災害時の給湯に大活躍で、震災直後に入手するのはかなり苦労したと聞いている。とても気の利く、きれい好きな後輩に感謝している。
 でも正直なところ、まさか診療所という医療の現場で、しかも震災から8カ月も経過した後に活躍するとは思わなかった。


バケツの水に入れたICコントロールヒーター。静岡市で開業している荒瀬整孝先生にいただいた
(2011年12月5日撮影)

 11月26日の朝、喪服を着て自宅を出た。
 廃虚となった志津川病院に車を止め、入り口で線香を上げて手を合わせた。その後、ベイサイドアリーナへ行き、10時からの南三陸町職員慰霊祭に参列した。
 慰霊祭は、黙祷から始まり、式辞・追悼の辞、顕彰状の授与、そして献花という流れで執り行われた。南三陸町職員として、40人もの同僚を失った悲しみや悔しさは、とても筆舌に尽くせない。白菊で埋め尽くされた祭壇、厳かでしめやかだった会場は、徐々に嗚咽、号泣の渦となっていった。
 勇敢にも最後まで職務を全うしながら命を落とした同僚。その御霊をお慰めするはずが、ついさっきまで隣にいたようなあまりにも鮮明な記憶と、理不尽で信じられない現実に、ただただ涙をこらえているだけだった。それでもこらえきれず涙はあふれ出した。

 本震災で失われた尊い命。忘れられないこと、忘れてはいけないこと。それらは、胸中の一部で永久に凍結して残るに違いない。

(日本歯科新聞2012年2月7日号)

愛車との再会


 11月20日、宮城県環境生活部資源循環推進課より一通の封書が届いた。
 中の書類に目を通すと、津波で流された私の愛車「プログレ」が、南三陸町の自動車教習所跡地に保管されていて、車内物品などの受け取りができるとの旨が示されていた。
 震災後、何度探し回っても見つからなかったため、すでに永久登録抹消手続きを完了させていたが、車内の所有物が戻ってくるかもしれない期待に胸をふくらませ、早速愛車面会の予約を取った。

 12月5日午前診療終了後、昼食は5分ほどですませ、13時に車の保管場所へ向かった。持参した物は、身分を証明するための書類(運転免許証)、プログレの鍵、そして軍手とビニール袋だ。がれきの街に転がっていた被災車は、どれもボコボコになっているが、ダッシュボードの車検証、コンソールボックス内の物、そして運転席後部ポケットに入れておいた手帳内の現金1万円は何とか取り出せると思っていた。

 自動車の保管場所は初めて行く場所だが、道に迷うことはない。荒涼として見晴らしの良くなった町に車が集められている場所は、遠くから見ても一目瞭然だ。
 保管場所に到着して、名前を告げ受付をすませると、担当者が私の車を置いてある所に案内してくれた。何しろ、保管場所には100台以上の車が並んでいて、しかも原形をとどめていないものも多く、自分では到底探せない。所有者の特定は車に刻印されている車台番号によるものらしいが、それとは別に各車にはマジックで番号がつけられていた。

ゾンビのような姿になってしまったプログレ(2011年12月5日撮影)

 「この299番が斎藤さんの車ですね」。
 そう言われたが、目の前にある車にはナンバープレートがなく、まだらにさびてゾンビのようなオープンカーだった。でもよーく見ると、ヘッドライトがくりぬかれたフロントにプログレの面影はあった。
 返事まで2、3分はかかったが、ようやく「た、確かに私の車です」と弱々しく答えた。
 後ろに回り込むと、トランクと後部座席部は、まるで圧縮布団のようにぺちゃんこになっており、後部タイヤは車軸ごとその上に乗っていた。屋根は真空パックのビニールのように座席にからみついている。
 車内は砂と泥でいっぱいになっており、コンソールボックスや運転席後部ポケットにはアプローチすらできない。激流の中でがれきにもまれながら、このような姿になってしまった。人工的にはあり得ない造形に、あらためて津波の恐ろしさを感じた。

 辛うじて、ダッシュボードから車検証を取り出し、愛車「プログレ」に別れを告げた。
 そしてまた、午後診療のためにベイサイドアリーナへと戻った。

(日本歯科新聞2012年2月14日号)

長かった2011年、職員健康診断そして最後の外来診療の日

 労働安全基準法に基づく定期健康診断が行われた。震災前は志津川病院内で、診療の合間を縫って各検査を進めていたが、今回はとても自前でできる状況ではない。そこで宮城県予防医学協会に委託して、ベイサイドアリーナを会場に行われた。

 健診指定日時は、12月8日、13時から14時30分の間であった。午前診療終了後にアリーナ入り口に行くと、受付に診療所職員と役場職員が行列をなしていた。この体育館に並ぶと、避難所だったころに食事のため並んでいたことを思い出す。
 受付をすませ体育館に入ると、まずは自宅で朝採りした尿を提出、その後、血圧測定、問診、診察、身長・腹囲計測などの各検査が次々と行われた。健診者は、まるでベルトコンベヤーに乗った物のようだったが、流れに任せれば、すべての検査が終わることになる。
 なぜか私の前後は女性ばかりだった。この体育館は健診で利用するには、だだっ広くて寒かったので、検査を待つ間はその都度防寒着を着ていた。寒さのせいか、血圧も通常より高めに感じた。
 体育館を出ると、ミーティングルームで血液検査のための採血と体重測定がなされた。採血の際に血管に注射針を素早く刺入している担当者は、どんな腕でも的をはずすことなく繰り返し、まさに職人である。
 また、体重測定の際、その結果を決して声には出さず、デジタル表示された数値をそっと指で示しながらアイコンタクトする計測者は、少し太って見えた。
 最後に、外に出て心電図検査と胸部レントゲン撮影を行う。これらはそれぞれのバスに乗り込み行った。心電図検査は、寝台車にあるようなカーテン付きの並んだベッド二つで同時に進められ、それを手前の横長座席に4、5人で座り待っていた。私のほかはすべて女性の役場職員だったため、密室でのこの状況はさすがにこの歳でも恥ずかしく、せめて知っている看護師でもいれば良かったのになと思いながら、終始無言でうつむいていた。

 レントゲン検査を終えると、14時を過ぎていたため、急いで診療所に戻り、患者が待機している診療台の陰で、昼飯をかっ込み午後診療を始めた。

 12月28日、健診結果通知書が各自に手渡された。予想はしていたが、脂質代謝に問題があり、要治療の判定。特に善玉コレステロールと悪玉コレステロールの比率(LH比)は、2.8にもなっていた。
 同日、早速向かいのプレハブ棟にある内科を受診した。受診時の血圧は、何度計測しても収縮期血圧が170を下回らない。
 内科医師は「これで斎藤先生も老人の仲間入りだね」と笑顔で、ノルバスク(Ca拮抗剤)とリピトール(スタチン剤)を処方してくれた。私も「いやいや、おかげさまで」とひきつりながら笑顔を返した。

 そしてこの日で、長かった2011年の外来診療が終了した。

(日本歯科新聞2012年2月21日号)

寒さの中で思うこと

 何があっても時の流れは止まることなく、自動的に2012年の幕が開いた。

 しかしながら、人の気持ちはそう簡単ではない。私は新年を祝う気には到底なれず、年賀状も書けないでいた。1月4日、仕事始めの診療所に行っても、おめでとうと口にする者は誰1人いなかった。

 そんな中、Facebookを始めた。
 診療室でユニクロヒートテックをアンダーシャツに着て、腕を組んだ写真をアップし、「給排水設備のないこの仮設診療所で冬を乗り切るぞ」とコメントを入れた。
 すると、久しく会っていなかった知人たちからレスポンスがあり、心の中にある孤独感が紛れ、明日への励みにもなった。
 Facebookは実名で知人とのつながりを感じることができる。「いいね!」。そう思った。

 1月10日、勤務終了後の17時過ぎに散髪をした。以前、「床屋さんも復興に一歩前進」と紹介した青空散髪は、10月下旬には夜釣り用のヘッドライトをつけながらの星空散髪となり、さらに今回は氷点下1℃での寒中散髪となった。床屋さんは仮設住宅に住みながら、いまだあちこちに出張営業しており、移動手段の乏しい高齢者に喜ばれているという。
 この数カ月、 商店の数もほとんど増えていないが、町の復興は産業、医療福祉、行政などすべてが並行してバランスよく都市計画として進むのが理想的だ。散髪中、「寒い中、申し訳ありません」という床屋さんに、「町全体が、こうだもの。ぜいたくは言えないよ」と答えながら、「寒中散髪は復興の足踏み状態を象徴している」と冷めた頭で思った。

 1月23日から日本列島に強烈な寒波が襲来し、毎日のように雪が降っている。
 27日の通勤途中、南三陸町に入る横山峠で氷点下10℃というデジタル表示を見て、水を使う診療ができるかどうか不安になった。山頂のベイサイドアリーナ一帯は純白の雪につつまれ、まるでスキー場に来たようだった。診療所では、手洗い場の500リットル給水タンクが凍結していたが、幸いなことに診療台の水回りは無事であった。
 「よし、何とか仕事はできる」。

等間隔に並んだ氷柱。屈曲したものも(2012年1月27日撮影)

 ほっとして通路の波板屋根を見上げると、そのへこみごとに10~20㌢の長さで、つららが下がっているのに気づいた。

 中には途中から屈曲した珍しいものもある。それらは等間隔に50㍍程も連なっていて、曇り空の中でもキラキラときれいだった。イルミネーションでは味わえない美しさ、ピュアでありながら神秘的な雰囲気さえも感じる。

 厳しい寒さが作り上げた氷の芸術との出会いに「何かいいこと、ありそうだ」、なぜかそう思えた。

(日本歯科新聞2012年2月28日号)

幾多の困難を乗り越えて


 東日本大震災以降、ただひたすら走り続けてきた。
 時の流れに対する感覚は鈍くなり、あたかも同じ景色の中でゴールの見えないマラソンをしているかのようであった。そのためか、地盤沈下した町の浸水や荒れた海を見ると、スタート地点での大津波が昨日のことのように思い出される。
 
 1月30日、「入れ歯を津波に流された」と、無歯顎の78歳女性が来院した。時間錯誤というか、義歯流失と今回の受診との時差があまりにもありすぎる。「この11カ月間、どうやって何を食べてたの?」と栄養状態の良さそうな基礎疾患を有しないこの患者に聞くと、「何とか、どてで、普通のご飯、食べてた」という答えが返ってきた。ちなみに「どて」とは歯槽堤のことである。
 震災前は定期的に口腔ケア目的の訪問診療も行っていたが、寝たきり度ランクBの90歳代女性が、同じように無歯顎で義歯も使わず常食を食べていたことを思い出した。しかも好物はステーキであった。レアケースだが、このようなこともある。
 無歯顎で構築された見事な咀嚼機能に、義歯という異物がむしろ水をさすかもしれないと思いつつ、歯科医師としてのプライドと津波に対しての悔しさが「入れ歯でちゃんと咬めるようにしようね」、と私に言わせた。
 
 2月11日建国記念の日、震災から11カ月が経過した。震災直後に自衛隊が駐屯していて、多数のトラックやドラム缶、そしてヘリコプターの離着陸が見られたベイサイドアリーナ多目的グラウンドには、役場庁舎と南三陸診療所の建築が並行して進んでいる。いずれも最終形ではなく、いわば第2次仮設である。

 先日の会議で、3月27日に合同竣工式、そして4月2日診療所オープン予定との報告があった。いよいよ野戦病院生活にも、ゴールが見えてきた。
 診療台に給水するための畜圧式タンク、排水管に連結したじょうろ、そして、外科や整形外科とついたてで仕切っただけの筒抜け外来。どれもこれも平時では考えられない状況の中で、ようやく幾多の困難を乗り越えてきたという充実感が沸々とわいてきた。

 最近、仕事終了後に歯科スタッフ全員でお茶を飲むのが習慣となった。狭いスペースゆえ4人でひざをつき合わせながら、これまでを振り返って話をすることが多い。家族風呂に入っているような雰囲気で、お互い「よく頑張った。貴重な体験だった」と言いながら、最後に「あと1カ月だ、頑張ろう」と締めくくる。大きく前進できるという現実が、間違いなく皆を明るくしている。

勤務後の憩いのひととき。ワゴンに並ぶ紙コップのコーヒーと梅昆布茶(2012年2月14日撮影)


 「じゃ、あがるよ。お疲れさま」。そう言ってプレハブを出て、冷えきったマイカーの後部座席に乗り込み、もぞもぞと白衣を脱ぎ始める。こうやって着替えるのもあと1カ月ほどだ。

(終)

(日本歯科新聞2012年3月6日掲載)

本コラムは下記の書籍に収録されています。
2012年3月6日号の「幾多の困難を乗り越えて」は未収録



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