帰国子女と大学受験

 帰国子女になる大きな利点の一つに大学受験の敷居が低くなることがある。2010年代の情報では、受験の際は特定科目の難易度が上がってしまうが、その分いくつかの教科を免除してもらえる。その為、AO入試と共に「一発芸入試」「楽な受験」と揶揄された。これは確かに事実であり、理不尽なことに実力のない者が私立最高峰の私大へと進んでいった。

 海外では日本人学校よりインターナショナルやアメリカンスクールの方が受験に有利であると言われていた。「せっかく海外に来たんだから」と子の学歴を気にする保護者からすれば、より「楽」して大きいリターンを得ることのできる海外ベースの教育機関への編入は自らの描く桃源郷への第一歩と言えただろう。しかしこれは同時に大きな賭けであった。心配点は二つある。
一に子の環境対応力、二に義務教育の放棄、つまり一般的な日本の教育には、そうそうと戻れなくなると言うことだった。

 インターやアメリカンスクールと日本の教育環境とでは、生徒の評価基準が大きく違っていることを認識しなければならない。学習レベルは生徒に合わせ、容赦なく降格、留年、そして退学を言い渡される。
インターの例を挙げると、小中高一貫校で12年の学習期間内にESLという特別クラスがある。これは英語が第二言語の生徒をレベルアップさせる為のクラスで編入生は余程の学力がない限りまずここに入れられる。小学生の頃までは1日1時間このクラスで授業を聴くが、中学生までに卒業しないと下手をすれば丸一日幽閉される。それはより高い英語力が要求される科目が一気に増えるからだ。成績表にも非ESL生には「HUMANITY 6/7」と言った評価がつくが、 非卒業生には「HUMANITY 6/7;ESL」と言った記載がつく。これは見る人が見れば能力不足なのが一目瞭然だった。
 しかし大学受験生というのは狡賢いものでギリギリESL卒業レベルに達する教科を武器に帰国生枠を勝ち取るのだ。その結果、入学後にボロが出る。日本の偉い学者さんが集まる機関はこんなことも見抜けないのかと中学生ながら失望したのを覚えている。

 日本の秀才は、インターで非凡以下だった。辛雑だがこのような先輩や後輩をよく見てきた。まず授業に対する姿勢が間違っていたのだ。
多くの人間は「英語の教育」と「英語で教育」することを理解していなかったのだ。この違いは大きく、英語の教育であれば予防線を張るのは容易い。むしろ日本の教育がそれを得意としているのだ。しかし我々は英語で教育を受けることに対して無知すぎた。いくら予習で英単語を把握しても、構文や文法を頭に入れても、そこが本質ではないのだ。
 本質を掴めていない生徒は卒業、あるいは転校するまでESLにいた。中高六年間ずっといた生徒も珍しくない。英検の知識はここでは役に立たない。数千の知識の中から一単語マウント取ったところで分厚い教科書やアサイメントは微動だにしない。
 価値観から脱することのできる人間が生き残る世界だった。しかしそれは同時に元の価値観には戻れないという事でもあり、日本と海外、二種類の頭を持つことは事実上不可能だった。

 2010年代の帰国子女枠というものは眉唾物であるというのが私の見てきた世界だ。日本の価値観を捨てきれず、中途半端に海外に足を突っ込みどっちつかずな肉塊となって高学歴の恩恵を受けていく。彼ら眉唾者は本来能力を持った者の可能性を押しつぶした曲者だ。事実、先輩方の功績のおかげで、私の後輩たちは私立最高峰大学への帰国生枠を狙えなくなった。大学側が採用した学生の能力不足を目の当たりにし、次年度より同条件での募集を行わなくなったのだ。
私はここに、日本人らしい意地汚らしさを感じた。子が子なら、親も親だと身をもって感じた。

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