自分の"努力"が、わからなくなった日。

はじめに

多感な時期に「お前は"努力"をしない」と言われた結果、自分の"努力"がわからなくなった話を書いておこうと思う。

急にこんな文章を書きたくなったのは、昔のことを思い出す光景に出会って懐かしく思うと同時に、もしかしたら世の中には他にも似たような人がいて、この文章を必要としているかもしれないとも思ったからである。

自分語りが多めの文章になるので、苦手な人は回れ右してください。

"努力"とは何か

"努力"を辞書で引くと、「目標を実現するために、心や身体を使ってつとめること(広辞苑第五版)」とある。

"つとめる"が何かと言うと、辞書によって"努力する"、"がんばる"、"力を尽くす"等の説明が出てくる。"努力"と"つとめる"が相互参照になってしまうあたり、定義が曖昧だ。ただ、軽々と目標をクリアできた場合は、"努力"とは呼ばないということは確かなようだ。

何が大変かという感覚は、人によって全然違う。例えば、体力のある人なら5km走るくらい苦じゃないだろうが、100mだって走りたくない人もいる。

だから、何をもって"努力"だと捉えるかどうかは、本来は他人に判断できることではないはずだが……多感な時期に「お前は"努力"をしない」と言われた結果、自分の"努力"がわからなくなった話をする。

自分の"努力"が、わからなくなった日

中学1年生の頃の話だ。当時の担任は、美術の先生でもあった。ある時、担任の授業で気分がのらなかった自分は、簡単な題材を選んで制作した作品を提出した。趣味で絵を描いたり工作するのは好きだが、授業で強制となると「時間内にできるものを作ってやり過ごそう」と手を抜きがちなのは小学生からの癖だったが、どうもそれが担任には伝わったらしい。「お前は努力をしない」と、断定形で言われてしまった。

担任としては、「やればできるんだからもっと頑張れ」という叱咤激励のつもりだったと思うし、自分もなにくそという気持ちになりかけた……が、言葉通りに受け取って冷静に振り返ってみると「確かに"努力"したことって無いなぁ」という気分にもなってしまった。

帰宅して親にその話をしたら、「そんなことはない、あんたも"努力"しているよ」と言ってくれたが、どうもピンと来ない。「例えば?」と聞いたら、親はしばらく考えた。考えてから、「練習して、補助輪無しで自転車に乗れるようになった時」とだけ答えた。

その場では「なるほど、確かにあの時は頑張ったなぁ」と納得したが、冷静に考えたら、親が持ち出したのは5,6年前のエピソードである。中学1年生から見たら、人生の半分くらい昔の出来事を持ち出さないといけないほど、親から見ても自分は努力しない子どもだったのである。

振り返ると、賞を取った夏休みの自由研究も、水泳の短期講習に通って泳げるようになったことも、半年ほど自分で勉強して合格した中学受験も、多少頑張った経験ではあるけれど「力を尽くした」と胸を張って言えるほどには頑張っていなかった気がした。「なるほど、自分は"努力"をしない奴なのか」と、妙に納得してしまった。

それからというもの、「自転車の練習」が自分の中では「”努力”と言うものの基準」になった。しかし、一度自分に"努力をしない奴"というレッテルを貼ってしまったためか、その後の人生では「自転車の練習」に匹敵する"努力"をしたという実感は得られず、今この記事を書くに至っている。
「自転車の練習」は、いつしか「人生で唯一"努力"した金字塔」となり、自分が「努力をしたことが無いわけではない」という、心の拠り所になってしまった。

"努力"をしないことは悪ではない

ただ、そうやって歩んできた人生が苦しかったと言えば、自分はそうではなかった。

「努力をしない自分」に気づいた時には少なからず衝撃を受けたが、自分は早々にそれを受け入れてしまえたのである。それならそれで、「結果が出せるのであれば頑張る必要は無い」という結果主義や、「頑張らなくたって人生楽しんだもの勝ち」という快楽主義的な考え方に傾いて行ったからである。

だからといって、「結果を出す過程を認められたい」という気持ちが完全に無くなったわけではなく、他人に「頑張ったね」と言ってもらえることは少なくなかった。そのおかげで、手段を選ばない犯罪者にはならずに済んだ気がしている。
ただ、どんなに他人が「頑張ったね」と言ってくれたところで、自分でそれを認められなければあまり意味は無いのだが、自分では自分の頑張りがわからない状態にもなっていたので、それについてはどうしようもなかった。

今でも、時折無茶をしたくなって、限界旅行したり山に登ったりするのは、「自分は頑張っている」という実感が欲しいからかもしれない。と言っても、きちんと計画を立てて、できそうな範囲のことをやって、実際にできたという薄い達成感を得るだけなので、実際には大した無茶はしておらず、ごくごく形式的なものである。

とはいえ、一度自分の"努力"がわからなくなった人間が、"努力"したという実感を得ようとしたら、心身が壊れる寸前までやらないと満足しないだろう。そういう意味では、「どうせ自分は大して頑張れないんだから、ほどほどの頑張りでほどほどに生きよう」と思えるようになったことは、幸運なことかもしれない。

今では「頑張らなくても済むように生きる」「無理をしなくても人生を楽しめるようにする」というのも、世間の定義からは外れているかもしれないけど、自分なりの"努力"なのだと思えるようになった。

"努力"とは、元来曖昧なものである。

さて、最初にも書いたように、"努力"というのはひどく曖昧なものだ。
傍から見たら明らかに"努力"しているように見えなくても、本人は必死かもしれない。

加えて、"努力"した実感というのは、どうしても結果に左右されやすい。

自分は大学受験に関しては、自分の中で"努力"と認められないものの「そこそこ頑張った」と思えているのだが、それは第一志望校に合格できているからである。使える時間をすべて勉強に使ったわけではないから、もし不合格だったら、「努力が足りなかった」「頑張れなかった」という捉え方をしたんじゃないかと思う。

"努力"(="頑張り"や"大変さ")と、"結果"は比例するものではない。でも、人間は心のどこかでそういう風に考えてしまう傾向がある気がしている。他人より結果が良ければ「自分のほうが努力している」、悪ければ「自分の努力が足りない」と。

でも実際には、"努力"と"結果"が比例することのほうが少ないというか、無いと言っていい。
生まれ持った能力や適性、自分に合った効率の良いやり方を見つけられるかどうか、あるいはそれを示してくれる人に出会えるかどうか、そもそもやりたいこともしくはやらなきゃいけないことが努力によって到達できる範囲にあるかどうかというのは、ほとんど全部運だと言っても過言ではない。

運に関してはあれこれ言っても仕方がないのだから、結果に関わらず"自分は頑張っている"と自分で思えるかどうか、あるいはいっそ"自分は頑張らなくてもいいんだ"と思えるかどうかが、人生では非常に大切なことのように思える。
自分は後者の境地に達しつつあるけれど、どちらにもたどり着けないと運や他人の評価に依存することになり、自分ではどうしようもない状況に置かれてしまうことが多くなって生きづらそうだな、と思う。

おわりに

まとまらない文章になってしまったけれど、もしかしたら自分と同じように"自分は努力ができない"と思い込んで、それを受け止められなくて苦しんでいる人がいるかもしれない、その人の参考になればと思って文章にした。

あまり拡散されたり話題になるような文章ではないと思うけど、そもそもこういう内容を書いている記事は少ないと思うし、いつか誰かが必要になったときに、検索で見つかってくれることを願っている。

もし誰にも見つからないままネットの海に沈んでいくなら、そうやって苦しんでいる人がいるかもしれないというのも杞憂に終わるんだから、それはそれでいいことなんだと思いつつ、この文章の締めとする。最後までお読みいただき、ありがとうございました。

※補足:この文章をまとめるきっかけになった一連のツイートは、このツイートからツリーになっています。人によってはこちらのほうが読みやすいかもしれません。もし興味がありましたらどうぞ。


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