「髑髏に色を塗る」⑦完

「ごめん、埋め合わせは必ずする。友達が大変なんだ。行ってやらないと」
 木下は後藤に向かって頭を下げた。木下の後頭部を見て後藤は微笑を浮かべる。こんなことをする男性には出会ったことが無かった。たったこれだけのことをしてくれる男性の存在を知らなかった。
「急ぎなよ」
 後藤が木下の肩を押す。再び合った瞳の中には慈愛が宿り、聖母の眼差しを備えていた。彼女にもう辛い思いはしてほしくない。一層強くなる決意を胸に、木下は家から飛び出した。

 ポップコーンとドリンクの乗ったトレイを片手に電話をしている赤羽。
「すぐ行く。待ってろ」
 そう言って終話する。考える素振りなど見せずに富田へ言い放つ。
「悪い、野暮用」
「え、ちょっともう始まるよ」
 上映開始十分前。開場が始まると同時に赤羽は映画館を離脱した。富田は一人、二人分のドリンクの重さを感じながら劇場に取り残された。
「あいつ。後で痛い目あわせてやる」

 病室で和子のベッド横に座っていた。柳は瞼を下ろした和子の無機質な顔を見つめる。無事でいたことがなによりだった。意識はまだ戻らないが、一先ず峠は越えた。拠り所が一つしかない人間の危うさ。和子にもしものことがあればと柳は気が気ではなかった。
 迷走神経性失神というものらしかった。長い間外で立っていると稀に起こるという。日頃の身体的疲労や血圧の低下など様々な要因が重なったのだ。加えて頭部を打ちつけた衝撃で軽い脳震盪も起こしていた。友人と共に外出をしていた最中のことで、柳は帰り際の友人と遭遇した。症状を聞き、容体が安定したので一旦帰宅すると言っていた。友人の女性は柳を見るなり「あなたが彼氏さんね。和子をよろしく」とだけ言ってその場を去った。柳は呆然とした。
 病院に到着し医師から説明を聞くまで、心臓の拍動が感じられた。五感が鈍り、四肢の端まで焦燥に塗れる。それは和子の顔を見るまで続いた。自分という個の中に真澄和子という人間がどれだけ影響し、関与し、侵入しているかを実感する。
「和子さんの誕生日、もうすぐじゃないですか」
 柳は霧散しそうになる声を振り絞った。
「俺にも祝わせて下さいよ」
 胸に堅固な誓いを立てる。彼女の死は、老衰以外受け入れてなるものか、と。
 矢のように勢いよく友人の声が聞こえた。木下が扉を開けて立っていた。後ろの廊下に赤羽も見える。
 距離があった為にタクシーを使った柳。到着までの間、焦りから二人に連絡を入れた。子供の癇癪のようにコントロールの効かない感情のせいだった。冷静さを取り戻した今なら分かる。考え無しに無関係の人間を呼び寄せた。反省する。
 簡潔に状況を説明した。二人は黙ってそれを聞いていた。
「こんなのが初(はつ)対面なんてな」赤羽が和子を見て言った。
 柳とて、もっと良い形で紹介をしたかった。和子の美しい手、優しげな容姿、穏やかで少しお茶目な性格。そのどれもを自慢したかった。命に別状はない。そうは言われても、和子が目を覚ますまで本物の安心は訪れない。
「和子さんと付き合うことになったのには理由があってさ」
 柳が口を開く。
「ある約束をしたんだ。まあ、俺が一方的にさせられたんだけど」
 木下は赤羽を見やる。赤羽は真剣に耳を傾けている。
「もし。もし自分に何かあったときは、その後の人生で必ず別の女性を見つけること」
 それが和子の提示した条件だった。柳が盲目になりすぎていることを危惧しての和子の妥協案。心中なんてことはなくとも、自信の空虚さをあれだけ詳細に言語化する若者だ、一個人の中年に首っ丈なのはあまりに危険すぎる。その支えが無くなって自壊するのは目に見えた。

 奈名に発破をかけられ、和子の元へ向かったその日。柳は一歩も退かず、自身の思いを言葉にした。少しも言い澱まぬように、熱量が最大に伝わるように。
 和子とした約束。それだけでも柳としてはかなりの譲歩をした結果だった。今別の女性を考える余裕がないというだけではない。自分は心からあなたを最期の女性と決めたのだと。しかし和子は条件をさらに上乗せした。柳の怒涛の求愛に怯んだからといって、曖昧な了承も行き摺りの交際も和子は認めなかった。
「それともう一つ」
 まだ何かあるのか。柳は生唾を飲み込んだ。どんな要望も応えてやる気だった。
「こんなに年が離れてるんだもの。すっぴんは嫌」
 なんだ、そんなことなら。常にメイクした姿でいたいなどとは健気だ。だがしかし素顔を拝見できないのは少し寂しさも感じるだろうか。
 刹那、柳はそんな呑気なことを巡らせたが、言葉の続きに様相を変えた。
「私が死んじゃったら、うんとおめかししてくれる?」
 冗談半分。齢十八の柳には真偽や正誤の判断が難しく感じた。和子とて強い言葉の要求で柳が諦めることの出来る最後の関門を作ったつもりだった。それが真実味を帯びているというのは後になって納得出来ることとなる。

 柳がもう一つの条件を思い出していると、赤羽が言った。
「別の女性か。好きな人にそれを言われるのは辛いかもだが、大事なことだな」
 赤羽はいつだって落ち着いている。目先の物事で自身を見失わない。
「和子さんはそんな歳じゃねえよ」子供じみた言葉が出る。
「今日みたいなことがいつ起こるかも分からねえからってことだろ? 要は」動じずに俯瞰的な意見を述べる赤羽。的確な第三者。私情より大切な、他者の理解や配慮は忘れるべきではない。「お前が三十もいかないくらいで恋愛にピリオドを打つようなことにはなってほしくねえんだよ、きっと。普通ならありえねえけど、お前なら本当に自分を最後の女性にしそうだから」
 赤羽の代弁は柳の内部に到達する。和子の思いと同じだ。
「そう、だな」
 柳は和子の手を取り瞼の奥の瞳に焦点を合わせた。二つの条件は飲み込んだ。どうかあの笑顔をもう一度見せて微笑んでほしかった。
 ほんの十数分のことだったが、柳は二人に和子の魅力を伝えた。二人は半笑いで静聴していた。木下がスマートフォンを確認してから柳へ告げる。
「俺、もう戻るわ。彼女がさ、待ってんだ」
 柳は無自覚に経過させてしまった時間を見て誤った。
「そっか。悪かったな、反射的に電話しちゃって」
 随分平静を取り戻した。友人に感謝し送り出さなければならない。
「何言ってんだよ」
「じゃあ俺も行こうかな」赤羽も木下に続き立ち上がる。
「うん。ありがとう、二人とも」
 柳の言葉を最後に病室には、区切られた四つの病床の患者四人と柳一人が残った。
 大きく深呼吸をする。息を吐き切った頃、後ろから声が聞こえた。
「お友達?」
 即座に振り返ると瞳をこちらに向けた和子がいた。
「和子さん! 起きてたんですか? もう大丈夫?」慌てて和子に寄り添う。
「心配かけたかしらね。ごめんなさい」
「そんな」
 三人の声を聞いて目を覚ましたらしかった。もう少しゆっくり帰らせるべきだったかと柳は頭を掻いた。幸い、二人が帰る間際に気がついたようで、自分の話をしていたことは知らなかった。倒れた原因や今の容体を説明した。和子は黙ってそれを聞いていた。
「歳かしらね。なんだかいつも疲れが取れなくって」
 まるで自分が悪いかのように言う。柳は擁護を口にしようとして止した。
「数日は頭痛が続くかもしれないって。念の為三日は入院て言われたから安静にしてください」
 柳は大切な人の顔を魂に焼き付ける。約束は違えない。泣き言も言わない。もしもを想定しろと言われたのだ、写真だけでなく、二つの眼を通して己に刻印する。それが礼儀であり和子の願いだ。

 柳は和子が退院するまでの残り二日、店を任されることとなった。営業をせず、店舗用シャッターを下ろしている生花店キッケ。本日は水曜日。和子から支持された作業に取り掛かる。
「全ての世話は難しいだろうけど、なるだけ教えるね」
 最低限の水やりを済ませる。アンプル型の栄養剤を挿しているものもあるので水は少量で済んだ。ここからの手入れや書類作業が待っている。植物の状態や在庫、注文など様々な要項を調べ記していく。
 シャッターに当たる雨足がやや強くなる。雨は孤独を浮き彫りにする。家の中でも、車の中でも。顕著なのは傘の下だ。自分が干渉可能な世界が突如狭まるようなあの感覚。視界の妨げ、音、低い気温。余計な情報は遮断しろと誰かに言われているようでさえいる。和子の家に泊まった記録的な日。あの時の雨とは少し違っていた。
 金属に物の当たる音が聞こえた。衝撃音。立て続けに声が聞こえる。
「おいっ。電話無視してんじゃねえよ。居んだろ? 開けろよ」
 男の声だった。何度も拳をシャッターに叩きつけているようだ。和子の知り合いか、客なのか。それにしては怒号の色が強い。借金取りでは。まさか。こんな雨の日にわざわざ店に押し掛けるだろうか。柳は思案した。
「返しに来ただけだよ。なあ、ほんとそれだけだから開けてくれ。頼む」
 返しに来た。やはりお金か何かであるようだ。しかし雨の中、緊急を要するとは思えない。仕事でなく私用でなら、あるいは。
 柳はシャッターに近づき、徐に開けていく。互いに足元から姿が見えていった。男の拳と声が止んだ。やがて全身が視界に収まる。
「あ? 誰お前」
 小さな可能性として抱えていたものが当たってしまった。男の顔には見覚えがある。アルバムで目にした和子と共に写っていた男だ。不潔な無精髭に薄汚れた洋服。雨のせいで生乾きのような臭いもきつさを増している。
「あんたこそ誰ですか」
 初めて会った年上の他人に失礼な物言いなのは理解していた。柳も自身の苛立ちを把握している。
「ちっ。和子は? 居ねえのか? なんでこんな坊主を店に残してんだよ」横柄な態度で声を張り上げた後、小さくぼやく。
「和子さんに何か用ですか。伝言なら俺に」
 柳が立ち塞がる。シャッターを開けたとはいえ店に立ち入ることは許さない。
「お前に言うことなんか何もねえよ」
「借りてたものを返すとか」
「うるせえな、金借りに来ただけだボケ。和子に言っとけ、さらに倍は用意しとけってな」
 男はポケットから取り出したキャッシュカードを柳の胸に投げつけた。濡れたカードが地面に落下する。男が踵を返す。不快な背中が柳の前方に晒された。
「和子さんとお付き合いしてます」
 柳の言葉が男を立ち止まらせる。
「あなた元旦那さんですよね。別れた奥さんからお金取ってるんですか。恥ずかしくないのかよ」
 敬語や丁寧語を雨で洗い落とす。
「何だと? 今なんつったお前。てかあいつ今こんなのと一緒に居んのかよ。馬鹿みてえだな」
 振り返った男と向き合う。柳は全身が強張るのを感じた。ここで直情的になるのは良くても、怒りに振り回されてはいけない。
「もう付き纏わないでもらっていいか。金だって、金輪際渡さない」
 凄む柳に負けじと男は顔を近づける。額の距離は拳二つ分だった。
「若い頃のあいつを抱いてたのは俺だ。ガキ。とやかく言うな」
 男は髭から雨を滴らせている。黒目が上下に小刻みに揺れる。
「ふざけてるんですか。喧嘩でも売ってるなら大人気ないですよ」
「事実だよ」
 睨み合いは続いた。柳は決して逸らさない。手を出すことが出来ない以上、視線だけは釘のように常に刺し続けなければならない。
「安達和子はいい女だったなあ。男ウケだってするわ。なあ、ありゃどうしようもない阿婆擦れだ」男の口には糸が引いていた。
「それはあんただろ」
 柳が呟く。ラブアンドピース。きっと和子はこういう言葉が好きだろう。柳は口先に全霊を込める。温情を消去する。敵に塩を送るような真似をしてたまるか。ここで根絶するのだ。
 病院での木下の言葉が去来した。三人で会話していた際、ふいに放った今後の柳への激励。
「男見せろよ、柳」
 雨が店内に入り込んできた。横殴りになっている。
「んだと!」
 男が柳の胸ぐらを掴む。高い身長に引き上げられる。男の右手から柳の服へ雨の水分が浸透していく。
「俺は和子さんを幸せにします。あんたと違って」
 柳は恥ずかしげもなく啖呵を切った。
「俺は何度だってあんたを追い払う。俺と和子さんにはただでさえたくさんの障害がある。なのにあんた一人に構ってられない。俺らは二人で戦わなくちゃならねえ。色んな人に納得してもらって、色んなものを作り出して、たくさんの汗をかいて、いっぱい喧嘩して、対策して、積み上げて。そんでもって愛して。愛しまくって、愛し続ける」
 柳は瞬きを忘れた。微動だにしない瞳孔が男を捉える。雨の音が二人から消える。
「俺は和子さんだけを見てる。あんたには出来ない。小遣いは自分でどうにかしてくれ。ガキじゃないならな」
 男は目を逸らした。無言のまま後退り体を反転させて帰った。柳が視線を下げると、倒れて雨に打ち付けられる一本の傘があった。透明なビニール傘は弾ける水の飛沫で白く覆い隠され、うまく視認出来なかった。

 雨は止んだ。白の中から覗かせる水彩の晴れ間が美しい。退院した和子は柳と電車に乗って店へやってきた。久々に我が子同然の草花を見て嘆声を洩らした。日光も相まって一段と活気づいている。
「安心してください。もう俺たちだけですよ」
「え?」
 柳は一枚のキャッシュカードを取り出した。決意を添えて和子に手渡す。
「俺の覚悟です」
 安達に渡したままでいた筈のもの。退院時にスマートフォンを確認すると幾度も着信やメッセージが届いていた。和子はそれを見て見ぬ振りをしていた。不安な気持ちのまま店へやってきていたが、それら全てが一瞬にして吹き飛んだ。柳の顔、発言、纏う空気の全てが信憑性を持ち、和子を安堵させた。
 柳は和子の手を握り、二人の間へ持ってくる。
「好きです」
 単純で明快な言葉。年齢が関係ないように、出会った日数も関係ない。今二人は誰よりも互いを信用し、信頼し、互いに安心している。
「私に死に化粧が出来る?」
 和子は瞳に涙を含ませてそう訊ねた。
「センニチコウ」
 柳が目線を向けた先には千日紅の花があった。勢いよく抱きつく和子。そのまま柳の頬へ唇を強く押し当てる。
「ちょっ」
「いいでしょ別に!」
 それは何度も繰り返された。

 その日の夜、柳は夢を見た。
 棺の中で和子が微笑んでいる。化粧をしてもしていなくても、ここまで皺が多くなればあまり変わらないだろう。そんなことを思った。それも、美しい彼女だから思えることだ。確かに肌全体の色合いは生命力が溢れるようで、死装束の白と同化することは無い。唇だって唯一齎された原色が煌々と存在を示している。けれども、やはり化粧の有無で彼女の持つ品や美貌、魅力が損なわれることは無いだろう。
 柳は自らの顔の樹木のような肌に触れ、微かに笑みを溢す。こんなことを思っていても、いくら手持ちの賞賛を並べても、彼女との約束なのだから仕方がない。一番素敵な状態をご所望ならそうしてあげるべきだ。

 色とりどりの彼女は、この世のものとは思えないほど綺麗だった。



ありがとうございます。 作家になるための糧にさせていただきます。必ず大成してみせます。後悔はさせません。