「髑髏に色を塗る」②

 記憶に押印されたあの美しき手を顧みる。
 土方は自宅で今日の事変を反芻していた。あんなものは忘れられない。奇跡だとか運命だとかいう稚拙な言葉の使い所が今まで分からなかったが、あれがそうであるべきだった。
 一つの部位があれほど上品な輝きを放つとは。意識したことなどただの一度もない。白蛇を見ているかのような神々しさがあった。厳かでいて、触れたら消えてしまいそうなほど繊細で。
 土方は夢見心地で翌日を迎えた。

 教授の声がくぐもって聞こえる。要所を捉えてノートの罫線上へ小綺麗に並べるが、いつもとは勝手が違う。難しい単語を読み解きながら整理し、考察したり友人と議論したりする。それすら覚束なかったのだ。
 折に触れてあの女性の手先が去来する。瑞々しく、皺が殆ど目立っていない。容姿も息を呑むほど整っていて、声も艶美だった。初めはそんな印象を持っていなかった土方だったが、好意が都合よく彼女の全てを纏って記憶させた。
 左手の木下から呼びかけがあった。右手の赤羽は黙々と板書を続けている。
「あのさ、深刻な話していい」
 その切り出し方は大抵些事だということを土方は知っている。
「いいよ」
「女の子のさ、おっぱいかお尻か問題あるじゃん」
 そんなものがあるのかはさて置いた。
「お前さ、どっち」
 身を乗り出して聞くほどの事なのか。片手間に相手をしてもよさそうな話題だった。土方にとって今はそれどころではない。しかし木下は期待を膨らませて、こちらへの興味を隠そうともしない。
「そうだな、手、とかかなあ」
 ぼんやり呟いた。正気を取り戻した時には後の祭りだった。
「レベル高いな、お前」
 木下が唖然としながら揶揄うように言った。呼応して赤羽がくすりと笑う。
「そ、そうじゃなくて、魅力的ってこと」弁明は無駄かに思えたが、曲解されても困る。美的な感性を固定されるのは構わない、しかしそれを安易に性的な趣向に結びつけられでもしたら堪ったものではない。
「マニアックすぎるだろ。ようやく変態の仲間入りか」
 なんて低俗な枠組みだろう。土方は頭が痛くなった。自分は中立を維持する立場であった筈だ。そんな中、両肩を背後から掴まれ、木下を向いていた体が反転する。赤羽の仕業だ。
「何かあったか」さながら敏腕デカの双眸をしている。
「べ、別に」
「いや、プライベートにようやく変化があったって顔だ」
 赤羽は絶えずこちらを射抜くように見つめていた。困惑する。無意識の内、現在抱く激情の行方を探していた土方が振り切れる筈もなく、白状を回避出来なかった。
 観念して二人に打ち明けることになった。

「へー! 店員さん!」
 木下は能天気にも大声を張り上げた。次の講義まで時間の空きが出来たので、キャンパス内にある中庭のベンチに座り、事の委細を説明したところだ。
「声でかいって」
「花を買うっていう古風さはお前らしくもあるから別段驚きはしないが、まさかそこで一目惚れなんて。人生何があるか分からねえもんだ」赤羽は感心している様子だった。
 一目惚れ。それが適した言葉なのか。土方は思いの外すぐに飲み込むことが出来た。初めての経験ではなかったからだった。
「何歳くらいの人? 上? 下?」
 言い淀んだ。
「えっと、どうだろ。四十、くらいかな」
 空気が凝固した。ごく僅かな間だったが確かに明確な化学反応を示した。
「え」
 目を丸くしている二人。
「熟女じゃん」
 木下の不本意な言い方に土方は顔を顰める。例の女性に対して失礼なように思えたからだ。言葉自体に蔑称としての意味合いはないが、現実であまり使われる言葉でもない。何より、昨今の若者が用いるそれはマイナスなイメージを孕んでいることが多い。
「やめろよ」
 土方にとって彼女を貶める発言は敵意に等しかった。それほどまでに傾倒していた。あの衝撃は後世に語り継がれるだろう。土方はその口伝ととしての役割を担うことに一切の迷いを持たない。
「さっき手が好きって言ったのもその人が」確かめるように赤羽が問う。
 口頭で伝えても実際にその情景を思い浮かべるのには限界がある。多彩な語彙で装飾せども、本来の魅力は再現不可能だ。
「ああ。手がさ、信じられないくらい綺麗だったんだ」
「可愛いネイルでもしてたってのかよ」と木下。
「そういうんじゃなくて」
 土方は先日目にした絢爛さを詳らかに告げるべく、最大限の熱量を持って説明に臨んだ。
 今まで感じた事のない余韻だった。あれだけ悩んでいた寂れた日常。起伏が無く、舗装された人生。高校時代の「無色透明くん」などという不名誉な形容を思い出す。現在の土方にはそぐわない。枯れた植物に水を与えたように、土方は生き生きとした表情に満ちていた。彼はまさしく、恋をしていた。
「にしてもすごいな。いくら美魔女でも流石に倍以上違うのはきついわ」そう言う木下に悪気はないように見える。
「俺も偏見で言うわけじゃないけど、大変だしやめといた方が身の為だと思うぞ」赤羽も続いた。
 二人の苦言や助言はどこ吹く風。土方の幹を動かすには至らない。ただ謗っているわけではないと十二分に承知しているからして、土方は口を動かしながらも褪せることのない彩色に歓喜し続けていた。

 土日の二日間、土方は熊本の実家へ帰省をした。
 母の日にわざわざ戻る人間は幾分か珍しい。土方は土日もアルバイトに精を出していた為、急な休み希望が通るか不安を抱え、欠員を憂慮してもいた。それでも日頃の鹿爪らしい勤務態度が功を奏したようで、シフトの空きの嘆願はするりと通過し允許された。
 三月の中旬に上京して以来、約二ヶ月ぶりに故郷の地を踏んだ。空気がおいしい、そんな常套句が相応しかった。片田舎なぞ何もない。動線の良さが眩しく、その利便性や強い憧憬を抱いて東京へ飛び出た時とは打って変わって、見慣れた風景に懐古を覚えた。半年すら経過していない状況でそんな心持ちになったことに笑った。もうホームシックを馬鹿には出来ない。
 空港からバスで時間をかけて家へ向かった。今回、土方は母親に何一つ伝えていない。花の事はもちろん、自らの来訪すら。サプライズというわけだ。贈り物だけで驚く姿を想像するのも一興と言えたが、どうせなら無断で登場してみようと思い立った。
 当然の帰結だった。家族は予想外の事態に慌てふためいた。食事のもてなしの一つでもしておいたのに、そう言って母親は迷惑そうに言った。少しだけ声を弾ませて。
 土方は品物を渡した後に、乱雑なようで整理整頓された家の調度品や家具、インテリアを見た。自分の持ってきたカーネーションのアレンジメントはそれなりの大きさを誇る。配置する場所は無かった。判断を誤ったかもしれなかった。事前にそれくらいの下調べはしておくのがマナーだった。土方が悔やんだ矢先、母親は嬉々としてレイアウトを変えながら思考を巡らせていた。「これはもういらないかもね」や「あ、丁度これ捨てようと思ってたんだ」だとか「意外にごちゃごちゃしてたのねえ。いい機会になったわ」などと言った。土方は口を挟まず、その様を見て目を細めた。野暮なことはしない。もう大人なのだから、と。

 褌を締め直す。最寄駅からの帰路は何度も往復して小慣れた筈だ。それなのに少し道を逸れればたちまち動悸が胸を襲う。土方は緊張を喜びで塗り潰すよう己に発破をかけた。
「よっしゃ」
 帰京して数日。母の日は終わった。それでいて尚、やってくる大学生が不自然に見えないか。土方は逡巡したが、会いたいという気持ちを抑えることは出来なかった。そもそもこんなに能動的な感情を抱いたのはいつぶりか。悩み抜いて友人に打ち明けた問題の糸口。私的なものでありながらも火急であった為に土方にとって僥倖と言えた。
 高鳴る胸を宥め、二度目の景色を探す。もう地図は必要なかった。客足は相変わらず多いとは言えないが、その門戸の広さは土方にとって好都合だ。しかし無人というわけではなく、数人の部外者が見られる。少し、土方の動きが鈍った。
「いらっしゃいませ」
 変わりない、あの流水のような声。土方は走る電撃が体を一直線に通過したのを感じた。一本の棒のように直立した姿勢になる。瞳を動かすとあの女性が降臨していた。やはり美しかった。便宜的な記憶の改竄は疑わずに済みそうだ。
「あ、どうも」
 土方は口下手な返しに自分でも驚いた。
「何お探しですか」
 まるで自分のことを覚えていないようだった。当然だ、いち客でしかないのだから。そう割り切ったつもりでも、土方の心はひどく残念がった。
 母の日という名目を失っている以上、要望の花をすぐに答えることは不可能だった。「あなたに一目会いたくて」なんて薄気味の悪いことは冗談でも口には出来ない。かといって買う気のない花を真剣に選んだとて事の進展は望めない。土方は急拵えで返答を考えた。その場凌ぎでも言葉を交わすことに意味がある筈だと。覚えてもらうだけで上々とする。
「なんか綺麗な花が見たくなって。前に良い買い物をしたもので」
 角ばった言い方のように思えたが、目的の品を買ってお終い、という事態を避ける為に漠然と花の魅力に当てられた若者を演出する。同時に自分を思い出す援助を図る。そしてその思惑は存外上手くいった。
「前に。ああ! 親孝行者の学生さんだ」
 土方は拳を掲げたくなる気持ちを必死で抑えた。この人の記憶から抹消されていたわけではなく、奥底に眠り、ちょいと入り口をつつけば忽ち表に出て来てくれた。自分の存在は確かに記録されていた。喜ばずにはいられない。期待も高まり、己の中の男性的な感情が助走をつけている。仮面の平静を取り繕う。
「母も喜んでくれたようでした」澄まし顔で言う。
「ほんとう。それは良かったです」
 次の言葉を探せ。土方は己に強い命令を出す。会話はいかに間隙をなくすかが鍵だ。そのくらいは心得ている。しかし先に口を開いたのは土方ではなかった。
「ごめんなさい、年取ると覚えが悪くって」
 眉が傾いた。屈託のない笑顔。これだ。この輝きが欲しかったのだった。求めていた癒しに再会出来た。
 土方が僅かに視線を下ろすと、あるものに目を奪われた。左の胸元に付いている名前の書かれたネームプレートだ。以前は付けていなかったように思うのは、自分が動転していたからだろうか。土方はそう自己分析をした。そこには「真澄和子」と記載されていた。
「マスミ、カズコさん」
 不随意的に読み上げてしまう。すると訂正の声が掛かった。
「え? ううん」
 穏やかで、なだらかな空気は変わらない。まるで一切の澱みのない硝子細工。店員はそのまま続けた。
「わこ」
 丸みを帯びた日本的な音が並べられた。初めて知った、思慕を抱く対象の名前。矛先の向けるべき地点が判明した。土方が呆けたように口先に空間を作る。
「ワコさん」
「そ。ええと、今日も花を買いに?」
「いや、買うっていうより、ハマっちゃったみたいな。興味ですかね」仮初の言葉を小手先にばら撒く。
 土方は慌てて近くの花に目線を落とす。どれもが鮮やかに光ってみえたが、天国を想起するような豪華さで花弁を数多く半放射状に向けるものが目に留まった。視界に優しく、ほんのりと桃色に染まっている。
「これ、桜みたいで綺麗な色してますね」
 土方が指差した方を確認する和子。
「ああ。その子はシャクヤク」
 愛でる我が子を呼ぶかのようなその言い回しに頬が緩んだ。
「なんか天国と地獄とかの絵本に出てくるやつみたいで見覚えがあるっていうか。自然と見ちゃいました」
 土方も早口で応じる。幼少の時分に目にした真四角のカラフルな平たい絵本。仏教的な価値観を根底に植えつけたその内容は、教養としてとても優れていた。善い行いをすればそれ相応の場所へ行き、平穏で豊かな日々を送る。悪しき行いをすればそれに見合った場所で罰を受ける。天国は白や黄色を基調とした温かみのあるイラストで、豪勢な食事をしたり、力一杯に咲き誇る花々や草木に包まれていた。方々で美しい笛の音が聞こえたり、子どもの高らかな笑い声が響いていたり、川のせせらぎが触れたりした。そして地獄はといえば、黒や赤のおどろおどろしい光景が広がっていた。八つに分かれた場所で、己の犯した罪を償う。殺した相手やいじめた相手に仕返しをされる。動物や虫やらそれは様々。火を放てば自らが絶え間なく業火に焼かれたり、嘘をつけば舌を抜かれたり。子供ながらに身を引き締め、恐れ慄く描写の数々に打ち震えたものだった。
「それ、ハスじゃないかしら」
 和子はそう言って土方に近寄り、腰を下ろした。側にあった芍薬に触れ、花弁の先を人差し指でちょんと突く。
「蓮の花」連想したものをぽつりと呟く土方。
「そういう極楽浄土で咲く花。確か、花言葉もそんなだった気がするわ。ま、花言葉ってかなり自由で、特に決まりはないんですけど。そもそも日本で生まれたものじゃないし」
 土方は感心した。知識量に関しては生業なので驚きはしないが、花言葉は知らなかった。学名をつけられる時にでも考案されるのか、図鑑に載る際に必要になるのか。それ以前に、大して花について調べたりしたこともなかったのだが。拙い知見を少しだけ恥じた。
「そうなんですか」
 土方を見てこくりと頷いた和子は、再び芍薬を見つめる。
「シャクヤクも遜色ないくらい綺麗だし、天国には色んな花があるんだろうけどね」
 見蕩れてしまう。聖母の眼差しに生唾を飲み込む。気持ちを何度再確認すればいいのか。土方はこの一瞬が恒久続けば良いと思った。
 同時にある発見をした。左の薬指が寂しい。指輪をしていない。信じられない光景だった。引く手数多である筈の魅力的な女性が独身だなんて。勤務時のみ外しているだけかもしれない。そう思いつつ期待する。一縷の希望を無視出来ない。浅はかにも足繁く通う予定を立てていた土方にとっては、吉報この上なかった。
「やっぱりとっても綺麗だ」土方は初めて会った時と同じように単調な賛美を送る。
「そうね」そう応えた後、和子は土方の視線に気づき、投げかけられた言葉が花に向けてではない事を知った。
「いえ、真澄さんの手が」
 土方にとっての男らしさとは、恥ずかしがらずに女性へ愛を伝えることだった。随分と短絡的である。金銭でもスペックでもなく、エスコートや気遣いよりも大切だと信じきっていた。
「またそれ?」
 和子はまた笑った。
「イマドキ珍しいわ。貴重よ、そんなに真正面から褒められる子」
 照れくさいのだろう。しかし今度は手を隠さなかった。一見、不健康にも見える真白い両手。こんな陶器があればすぐにでも売り切れてしまう。またも土方は空想を迸らせた。
「知り合いに手荒れに悩んでる子がいて」
 言った後で、毛ほどの罪悪感に躓いた。二言目には撤回の言葉を用意したが、それは和子に遮られることとなる。
「私ね、ハンドモデルをやってたの。うんと昔のことだけどね」
 これまた素敵な職業だ。土方は化粧品や装飾品の艶やかな広告を想像した。シンプルで清潔感があり、それでいて印象に残る洗練されたものだ。土方の理想との齟齬がない。これ以上ないほど納得がいく。
「それで」
「まあそのせいか、手だけでも若さを保ててるみたいで嬉しくなるわね。ありがとう。良い子ね、あなた」
 土方は思った。和子はきっと、自身の美貌に無自覚だ。一介の大学生を虜にしてしまう魔性を秘めているというのに。「手だけじゃないです」そう言おうとして、寸前で止した。馳走に飛びかかる腹を空かした駄犬が重なったからだった。
「あ、あの。ご飯。とか、どうですか」
 振り絞り、放った言葉が宙に浮かぶ。やはり辿々しい。
「ご飯? どうして?」きょとん、とした様子で和子が聞き返す。
「どうしてって」
 言葉が詰まった。ここで思いを伝えるのは流石に早すぎる。当の和子本人は心から理由が分からないようだ。駆け引きをしているようには見えない。土方もやけになった。
「色々花のこととかも聞きたくて」
「うふ、勉強熱心ね」
 花やら手荒れやら、まるきり口から出まかせというわけではないが、口八丁を演じるに徹する。
「それとも口説いてるのかしら」
 土方の思考が静止する。食事の誘いは直球すぎたのか。迂闊にもたじろぎ、反応に困った。自分の心緒が筒抜けなようで、恥辱と言う他はなかった。
「おばさんの冗談よ。そんなに畏まらないでよ」
 和子がそう言って微笑む。分からなかった。この狂気的なまでの鈍感さや天然のようなものは、一周まわって年の功などではないのかもしれない。土方はそんな風に思った。
「若い子の遊ぶところは、池袋か新宿か渋谷かな?」
 和子は副都心の名前を列挙し、場所の提案と共に土方の誘いを承諾した。土方の眉が上がる。開けた店内の中に、桜を含んだ陽気な春風が吹いた気がした。きっと風向きは良い。
 予定が立ったくらいのことでこれほど興奮したのはいつぶりだったか。全身の鳥肌が着衣の感触を際立たせる。合成繊維の一つ一つが存在を主張する。視界も変容した。視力が向上した。和子の着用しているサロンエプロンの深緑が影響したのか、以前より世界が鮮やかに映った。土方の五感が研ぎ澄まされるように、細胞の上げる歓声が聞こえた。
 木下と赤羽には何て言おうか。取り敢えずのところは何を聞かれても黙殺しよう、そう決める。まだ進展があったとは言えない。明確に事が進めば適時話す、それで良い。急がば回れだ。
「ありがとうございました」
 土方は深く頭を下げた。腰から四十五度以上を折るようなものではなかったが、最大限に敬意を込めて深く倒した。
 土方は兎のように跳ねる気持ちを、和子は闊歩する猫のような気持ちを互いに抱えて別れた。この日を土方が忘れることはない。出会った日と同等に思い入れのある一日。少しばかりの勇気を出して手に入れた楽園への切符。決して肌身離さず、我が命の如く死守する。ふわりとした羽毛は微風にさえ吹き飛ばされてしまう。足に根を張り、浮ついた己を律するべく拳を握りしめる。
「あ、君の名前」そう和子が訊ねるために振り向くと、すでに土方の姿はなかった。
「聞きそびれちゃったな」
 まだ高い日に向かって独りごちた。空が青い。

 ベッドの上で折り畳んだ右腕を枕に、側臥位で呆けている。食欲が湧かない。虚ろになった瞳で半分ほど開けた瞼のようなカーテンを眺める。エアコンは稼働させていない。その為、常温で無風の空間の中で、びくともせずに燦然たる外の明かりを透過させていた。
「ワコ。和子さんか。わこ、和子」
 呪文のように繰り返す。土方は恋の訪れが陥らせる淡色の渦から抜け出せずにいた。こんな幸せな蟻地獄があればいい、などと有頂天で感けていた。
 娯楽にまみれた現代社会。スポーツであったり芸術であったり学問であったり。曲がりなりにも多少の興味は示してきたつもりだった。そんな土方にとって、頭の中を個人が占めるという初めての体験。今まで人生の恋愛はどこか片手間だった。片思いにしろ、交際にしろ。心は動いたが、その他が何も手につかなくなったなんて事はない。現状は、まさにそれだった。ひたすらに過去を咀嚼し、未来を凝視している。
 和子との日々を皮算用していると、現実に引き戻された。アパートの薄いドアの向こうに聞こえるのは従姉の声だった。インターホンを押さずに、ノックさえせず大声で土方を呼ぶのは彼女の性格を表していた。恥ずかしげもなく身内の名をよく叫べるな、と土方は不思議に思ったことがある。
「佳折姉」
 女の名は臼井佳折。土方の父親の妹夫妻の一人娘だ。年齢は五つ上の二十三。同じ一人っ子として、土方にとってはまさしく姉のような存在である。
「姉ちゃんまで言いなさい」言って佳折は室内へ足を踏み入れた。チェスターコートにパンツスタイルを合わせている見た目から、彼女にキャリアウーマンの印象を受ける。しかし大量に抱えたレジ袋が、その洗練を邪魔していた。近くのスーパーで買い揃えたものらしかった。
「ちゃんって歳でもないでしょ」土方は主観的な私見を述べる。
「じゃあ姉さんとお呼び」
「それもちょっと」
 佳折がやや進んでリビングを一望すると、尖った言葉が吐かれた。
「あんた、もう少し片付けなよ」
 土方の部屋はごみ屋敷と形容するほどではなくとも、衣類が散乱しており、開けていない郵便物や段ボールが所々で山を作っていた。今まではそれなりに見栄えの良い宅内を維持していたように記憶していた土方であったが、和子との邂逅から、知らずのうちに身辺の事が疎かになっていた。清潔は最も配慮すべき点である。
 レジ袋を粗雑に放り、コートを脱ぎ、空間を作っている辛うじて小綺麗な床にゆっくりと畳みながら置く佳折。シャツの袖を捲り、キッチンまで小走りで赴いたらシンクで手を洗い出した。レバーハンドルを右手の甲で押し上げ、勢いよく水を排水口へ落としている。
「大学、もう慣れたの」
 上京した土方に対し、まるで親代わりのような言葉を掛ける。先日自分が帰省したことは知らないのだろうな、と土方は考えた。
「うん、まあ」
「そう」何とも気のない返事だった。定型文を音にしているだけだ。
「何か用あった?」
 アポイントメントなしの来訪を訝しんだ故の質問だった。腹の内に何を隠しているのか。今はそれどころではないというのに。土方には和子に時間を割くこと以上に有意義なものはないように思えた。そんな考えにまで至っていたのだ。
「いいじゃん、別に大した用が無くても。これからの健闘を祈って、飲もうぜ」
 佳折はレジ袋から缶ビールを真ん中の低い机に並べ始めた。格好から、声の抑揚から。ストレス発散の晩酌に付き合わされるのだなと土方は腹を括った。
 酒は進んだ。十八の土方はまだ飲酒が出来ない。饒舌になっていく従姉を眺めるだけだ。顔に出やすいのか、佳折の頬はすぐさま紅潮した。銀色に輝く空のアルミが三つで列を為している。四つ目を片手に、逞しい胡座をかきながら仕事の愚痴を吐き捨てていた。土方としては一緒に呑み込んだままでいてほしいものだった。
 土方は異性が酔っている状態で自室にいることが好機に思えた。今直面しているもの。木下や赤羽よりも適した相談相手かもしれない。大人の女性の傾向や好みは参考になるのではないか、今後に役立つのではないかと浅はかに浮かべた。
「年下の男ってどう思う」ぽろりと試験的に溢してみた。
「何、気持ち悪い」
「そうじゃなくて。例えば、年の差のある恋愛とか」
 物は試しだった。今日より早い日は無い。出会ってから最短で結果を出す必要がある。うかうかしているとあんな美人、いつ所帯を持つか分からない。そんな淡い焦燥が土方を駆り立てた。
「年の差あ? いくつよ」
「うんと、結構」
「何あんたオババ狙ってんの」佳折が大仰に目を細める。
「その言い方やだな」
「澄ましなさんな」
 すると佳折はため息を吐き、天井のLEDライトの様子を見た。眩しさにやはり瞼を狭め、やがて片手に覆われた缶のステイオンタブに目を向けた。
「デートに食事はやめときなさい」
「え」
 土方の態度などには目もくれず、自らの考えを発信する。経験を元にしているのか想像を巡らせてなのか、さも自信ありげに口を開いた。
「咀嚼は会話の妨げになるし、上手いリズムでラリーは出来ないわ。何より、食事でのマナーって家によって全然違うし、案外こだわりあるからね」
 佳折は続けた。
「一人でも楽しめるもの、数が増えても楽しさが変わらないものは止した方がいい。食事とか、映画とか。食事は腹を満たせればいいし、映画は観れればいいけど、動物園や水族館は周ることが出来る。周るのは一人より圧倒的に二人の方が楽しいからね」
「そ、そうかなあ。動物や魚が見れれば満足だと思うけど」
「公園とかでのんびりもいいかもね」酔っている割には舌が回る。へべれけの手前には違いなかったが、その割に佳折は土俵際に強かった。
「そんな。中高生じゃないんだし」
「あら。意外に大人になるにつれ、そういうのを好むものよ」
「佳折姉も?」土方が確かめるように聞く。
「あたしはまだお金が目に見えた方がいいけど」若さを主張するような物言いだった。
 人を誘う。そんな初歩の段階でこれほど熟考して答えを出すものだとは思わなかった。恋愛ドラマで大人の恋人同士または関係性の浅い状態の男女が、よくテーブルを挟んで余裕のある会話を繰り広げる光景を目にする。背伸びしたつもりは無かったが、至らないところが多かった。初めて本気で手を伸ばすという行為に不慣れすぎた。無茶をした。
「そっか」土方は言葉に詰まるように言った。
「どしたん」
「もう、ご飯誘っちゃった」
「はあ?」
 佳折としても想定外の返事だった。今まで深い恋愛の話などしたことが無かったから、真面目に助言の一つでもしてやろうと老婆心を働かせたつもりだった。しかしすでに物事は中途にあったのだ。暫し苦い表情をした後、妥協案を口にする。
「じゃあ、せめてカフェとかにしときなさい」
「はい」
 土方は雲行きの怪しさに怯えるように返答を紡いだ。自分一人の力でどうにかしようなんて強がりは悪手だったろうか。初めから人の手を借りるべきだったかもしれない。何にせよ、それは後の祭りだった。



ありがとうございます。 作家になるための糧にさせていただきます。必ず大成してみせます。後悔はさせません。