見出し画像

東日本大震災から10年。3.11の生々しい記憶を書いておくことにした。

2011.3.11 14:46
忘れてはいけない記憶だ。

少し長くなるが、石巻現地で被災した声を聞いてほしい。
ぜひ、読んでほしい。
(最近、東日本大震災現地被災した人に初めてあったいう人が私の周りにいたw)

そして、この記憶を当時の原体験として、記しておきたい。
日々の生活に癒され、幸いにも少し遠い記憶になってきたからだ。

それに、この記憶は、高校3年間を共に過ごし、震災でなくなった友人が、その時生きていた紛れもない証である。

※私のケースはまだまだ被害が少ないケースであると認識した上で、お読みいただきたい。

——

私は宮城県石巻市蛇田生まれ育ち。大学1年生までずっと、蛇田にいた。(3/12加筆)

当時、19歳。大学1年生の春休み。
あの日、生まれて育った実家にいて、アルバイト前の昼寝をしていた。

なんだか大きい地震が来るような、お尻のあたりがもぞもぞするような感覚があり、きっと気のせいと思っていた。

そうすると、突然やっぱりきた!と思ってはいられないくらい大きくて、立っていられないくらいの地震がきて、「死ぬ」と心から思った瞬間だった。

当時の実家は、築50年くらいの木造平屋建て。
これまで過ごしてきた思い出が、雨風をしのぐ家が崩れるかもしれない、そして私は下敷きになるかもしれない、そう感じて、一目散に目の前にあったサンダルを履いて家を出た。

向かいの家の人も外に出ていて、すがるようにみんなで手を繋ぎ、抱き合った。
怖いよう、怖いようとにかくみんなが震えていた。

これまでが第1波の揺れがおさまるまでだった。

やっとおさまった、今すぐ家が崩れているか振り返らなくては、そう思った時、第1波よりも強い第2波の揺れが来た。

家のことを考える余裕もなく、とにかく立っていられなかった。座り込んで、手を取り合ってみんなで抱き合った。
目の前を通りかかっていた小学生の子供たちがたまたま居合わせたこともあり、電信柱や瓦礫が降ってくるかもと思い、必死に子供たちの手を手繰り寄せて、「怖くないからね、もうすぐおさまるからね」と声をかけ続けた。

長かった、そしてこれまで経験したことのないような揺れがようやくおさまった。

そうすると、海の方角から1人のおじさんが、自転車を走らせながら、「30分後に大津波が来るぞ」と知らせてくれた。

当時の実家は、海から直線距離で2km。
「間違いなくいますぐ逃げなければ、死んでしまう」と思った。

数分の間、揺れがおさまったので、なんとかして家に戻った。家は無事だった。(対策していたので、家具の倒れもなく、食器が数枚割れた程度だった。)

コートと、玄関先にあった避難道具を持ち出し、スニーカーに履き替え、すぐに家を出た。
家に滞在したのは、2分程度だったろう。

その後、家を出た私は、家族との取り決め避難場所である、最寄りの中学校に向かった。

徒歩で12分ほどの直線の道だ。
電信柱が所々で、ねこぞぎ倒れ、真ん中で折れ、周辺の景色だけで、この地震の凄さを目の当たりにした。

中学校についた頃、ようやく携帯を確認し、家族が無事だったか確認しようとした。
当時もだが、こういう地震の時は電波が乱れるため、電話がなかなか通じない。

母に電話するも繋がらない、姉に電話するも繋がらない。

しかし、留守電が来ていたため、きっとなんとか生きていると確信した。

数回してなんとか姉に電話が通じた。
そして無事だと、状況を話している間数分してから、私の携帯の充電が切れた。

中学校に避難してからも、揺れは収まらず、当時の非常電源では限りがあり、寒い中暖房器具を2台ほどつけるだけでも精一杯だった。

そうして、明かりもない教室でとにかく夜が明けることを待とうと思っていた。

明日どうなるかなんて、考えられなかった。
もっと大きい地震が来るかもしれない、家族には二度と会えないかもしれない、そんな絶望がみんなの心にあって、とにかく自分の心が負けないように、折れないように保つことだけに精一杯だった。

今折れてしまっては、一気に全てが崩れてしまう、そんな気がしていた。

夕方6時頃だっただろうか。
第1陣のヘリコプターの明かりが教室に差し込んだその時、すっと母の姿があった気がして、思わず「お母さん」と呼んだ。
「ゆうこ」と呼ぶ声がして、それは母だった。

私は幸いにも、家族と再会できた。
本当に奇跡だと思った。

母は、私を探すために中学校と家を、危険を省みずに何度も往復し探し出してくれた。

そうして、離れた場所にいた姉のことを心配しながらも一晩を過ごした。

ラジオでは、遺体が川に何人も浮いているという情報が何度も何度も流れて、大学の友人も、親戚もみんなが助かっているように、どうかどうかと願うばかりだった。

これしかできなかった。

次の日の朝、近くに住んでいる親戚のもとへ、母と歩いて行き、互いの無事を確認しながら、今後どうしていくかを話し合った。

そして、幸いにも地盤の強い山の方に住んでいる親戚のもとに、みんなで身を寄せることとした。

いまだ、姉は家族と離れていた。

親戚の家に身を寄せ、数日が経った頃、親戚の家から数分歩いたところから、ちょうど平野(海側)を見渡すことができる場所があり、恐る恐る見に行くことにした。

目の前に広がっているはずの田んぼの景色は、海水で満たされ、まるですぐそこまで海が広がっているようだった。

とにかく怖い、それだけだった。

それから数日するかしないか、姉がなんといろいろな伝手を辿って、身を寄せていた親戚の家に帰ってきた。

こんな奇跡がまたあるだろうか、と思った。
いつ会えるか会えないかも分からない姉と、こうして再会できたのだから、人生の運が全て尽きてもいいと思ったことはない。

そしてそこから何日かして、ある程度田んぼの海水が引いた頃、住んでいた家に帰ることとなった。

その時、車のガゾリン残量はギリギリ尽きるか尽きないか位だった。
でも、ギリギリ家にたどり着けた。

実家は床下浸水したものの、住める状態だった。

その後は、大きい余震はあれど家族で実家で過ごした。

電気が付いたのは、3.11から3週間くらい経った頃だろうか。床下浸水でも、電気配線は無事で、電線も倒れていなかったこともあり、通電した。

そして、そこで3.11以来初めてテレビを付けニュースを見た瞬間、絶望した。

ここで、あんなに大きい地震だったことを痛感したのだ。

みんな無事だろうか、それだけだった。

携帯もやっと充電できたので、メールをみた。

友人たちから「どうか生きていてくれ」と何度も何度も電話とメールが来ていた。

涙が止まらなかった。
ありがたくて、ありがたくて。

こうして、私はいつの間にか大学2年生になっていた。

——

一部割愛した部分もあるが、これは3.11〜3月末くらいまでの日々である。

最初にも書いたが、私はまだまだ被害が少ないケースだ。
もっともっともっと、最悪なケースも知っている。

私は、震災前の友人たち、関わっていた人たち、さらにそこから広がる全ての人が、今少しでも前に進んでいてくれたらと祈ることしかできない。

それに、こうしたつらい記憶に終わりはない。

だけど、私はこの記憶を鮮明に覚えていたいし、それが何よりも亡くなった友人の供養であるとも思っている。

生まれ変わっても、母から生まれたいし、姉とは姉妹で、私に関わる全ての人と会いたいと思う。

「生まれ変わっても、またきっと探すから。」そんな歌詞が何かの歌にあったように、希望を胸に生きていく。

震災だけに限らないが、伝えたいことはその時に伝えないと後悔する。

だから、みんなに今”ありがとう”と”愛している”を伝えたい。

またみんなの心に陽が昇りますように。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?