見出し画像

ランボルギーニが使っている書体とロゴの歴史

ビジネスに使えるデザインの話

ビジネスにデザインの知識はけっこう使えます。苦手な人も多いから1つ知るだけでもその分アドバンテージになることもあります。noteは毎日午前7時に更新しています


ランボルギーニに使っている書体

ランボルギーニのウェブサイト

ランボルギーニに2024年5月現在でウェブサイトで使用している書体はRoboto。

Roboto

Roboto
Roboto 
Image source: Identifont

書体名:Roboto
カテゴリ:サンセリフ
分類:Neo-grotesque
デザイナー:Christian Robertson
ファウンダリー:Google
リリース:2011年

Robotoは、GoogleがモバイルオペレーティングシステムAndroidのシステムフォントとして開発した書体です。書体のカテゴリはサンセリフ体で、分類はネオグロテスク。2011年にAndroid 4.0 「Ice Cream Sandwich 」向けにリリースされました。2014年、Android 5.0 「Lollipop 」用に再設計されました。

使用

RobotoはAndroidのデフォルトのシステムフォントであり、2013年以降はGoogle Play、YouTube、Google Maps、Google ImagesなどのGoogleの他のサービスでも使用されています。

2017年、Robotoはニューヨーク市地下鉄B部門のLCDカウントダウン時計に使用されました。※LCDとはLiquid Crystal Displayの略で液晶ディスプレイを意味しています。

Bディビジョンの一部で使用されているタイプの詳細な次発列車表示
By Tdorante10 - Own work, CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=66320220

Roboto BoldはUnreal Engine 4のデフォルトフォントであり、Kodiにも採用されています。Roboto Condensedは、Nintendo Switchのヨーロッパ版パッケージ(ゲームの物理的リリースを含む)の情報表示に使用されています。

Utsav Network(ディズニー・インディアが100%出資するディズニー・スターが運営する、ヨーロッパ・ヒンディー語放送の総合エンターテイメント有料チャンネル。番組はヒンディー語で、英語字幕付き。)はそのワードマークにRobotoを使用しています。

By https://whatsondisneyplus.com/wp-content/uploads/2021/01/Utsav-Plus.jpg, Fair use, https://en.wikipedia.org/w/index.php?curid=66463871


国連はウェブサイトや公式文書でRobotoを使用しています。

国連のウェブサイト
Image source:United Nations web site

Robotoの歴史

Androidの以前のシステム書体であるDroid Sansは、初期のAndroidデバイスの低解像度ディスプレイ用にデザインされたもので、それ以降のモデルのより大きく高解像度のスクリーンではうまく表示されませんでした。

Droid Sans
By QBK - Own work, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=7055691

新しい書体であるRobotoは、クリスチャン・ロバートソンによって完全に社内でデザインされました。彼は以前、彼の個人的な書体鋳造所であるBetatypeを通じて拡張Ubuntu Titlingフォントをリリースしていました。

Robotoは2012年1月12日、新しく開設されたAndroid Designのウェブサイトから正式に無料でダウンロードできるようになった。

ヒューマニスト(サンセリフ体の分類のひとつ)なサンセリフ書体のDroid Sansと比べると、Robotoはサンセリフ書体のネオグロテスクなジャンルに属します。この書体にはThin、Light、Regular、Medium、Bold、Blackのウェイトがあり、真のイタリック体ではなく斜体(Olique)のスタイルがそれぞれに合わせてデザインされています。また、Light、Regular、Boldのコンデンス体もあります。

2014年、マティアス・ドゥアルテ(チリ系アメリカ人のコンピューター・インターフェース・デザイナーで、グーグルのデザイン担当副社長)はGoogle I/Oで、RobotoがAndroid 5.0 「Lollipop」のために大幅に再設計されたことを発表しました。

句読点や小文字の「i」と「j」のテロップが四角から丸みを帯びたものに変更され、数字の「1」の上部の下面が水平ではなく下を向き、数字の「6」と「9」のテール部分が(「Trebuchet MS」に似せて)わずかに短くなり、書体全体が「わずかに幅広で丸みを帯びた」ものになり、細部に多くの変更が加えられました。

新しくデザインされたバージョンのRobotoは、Light (300)、Regular (400)、Bold (700)に加えて、Thin (100)、Medium (500)、Black (900)が追加され、より幅広いフォントウェイトで提供されています。

2013年、アンドロイド5向けにデザインが変更される前のRobotoのサンプルテキスト。現在とは異なり、Rの脚はHelveticaと同じようにカールしている。
By Google - c:special:permalink/372451715#Typo_in_font_specimenhttp://commondatastorage.googleapis.com/androiddevelopers/design/Roboto_Specimen_Book_20131031.pdf, CC BY 2.5, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=36851373


ランボルギーニ(Lamborghini)

Lamborghini Logo
By The logo is from the following website: http://www.lamborghini.com/ Taken from the Italian Wikipedia, where it was created and uploaded by Angelus (talk), Fair use, https://en.wikipedia.org/w/index.php?curid=32184343

ブランド名:ランボルギーニ(Lamborghini)
国: イタリア、エミリア=ロマーニャ州サンタアガタ・ボロニェーゼ
創業:1963年
創業者:Ferruccio Lamborghini
親会社: Audi AG

ランボルギーニ自動車(Automobili Lamborghini S.p.A.)は、イタリアのサンタアガタ・ボロニェーゼ(Sant'Agata Bolognese)に本社を置く高級スポーツカーとSUVのメーカーです。フォルクスワーゲン・グループが子会社のアウディを通じて所有しています。


創業者であるフェルッチオ・ランボルギーニ(Ferruccio Lamborghini, 1916–1993)は、第二次世界大戦後、イタリアにトラックが不足していることに目を付け、軍が放出するトラックを民生向けに改造し販売することで富を得ました。

フェルッチオ・ランボルギーニ(Ferruccio Lamborghini, 1916–1993)
Attribution, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1213551


大戦中、ロドス島にて兵器のメンテナンスに当たり、フェルッチオ氏の経験が活かされました。1947年、当時から自動車好きであった彼は、これを元手に小さなチューニングショップを開きました。

1948年(32歳)、彼は友人と共にミッレミリア(Mille Miglia :1927年から1957年の間にイタリアで行われた自動車レース。現在では同名のクラシックカーレースとして毎年開催されている。)に参戦。車両はフィアット・トポリーノで、自作のOHVヘッドが載せられていました。しかし途中で友人が運転を誤り、レストランに突っ込んでしまいました。この際、彼は友人と共に車外に投げ出され、大ケガを負ってしまいました。後に彼がレース界から距離を置くようになったのは、この経験が一因であるとされています。

その後、彼はトラックに続いてトラクターの自社開発に取り組み、1949年(33歳)にランボルギーニ・トラットリーチ SpAを設立。当初はただ同然で手に入れた軍放出車両のモーリスエンジンを用いた一般的なものでしたが、後に自ら開発した排気熱で軽油を気化するイン・パボリザトーレというシステムを使って高性能なトラクターを作りました。

これは当時高価であったガソリンをエンジンの始動と暖気に使うだけで済み、後は安価な軽油で充分に動かせたため、大ヒットに繋がりました。また1960年(44歳)にはランボルギーニ・ブルチアトーリ SpAを設立し、ボイラーとエアコンの製造販売を手掛け、これも成功を収めました。

巨万の財を築いた彼はエキゾチックカーを収集しはじめました。しかし、どの車も暑すぎたり、スピードが十分でなかったり、狭すぎたりしたため、フェルッチオを満足させるものではありませんでした。

のちにエキゾチックカーの生産に乗り出したフェルッチオ氏は、「助手席に座るレディのメイクアップが(汗で)落ちないような快適な車を作りたい」と語ったという。

やがて彼は富の象徴、フェラーリのオーナーとなりましたが、当時のフェラーリにはクラッチに決定的欠陥がありました。所有するフェラーリの度重なるクラッチ故障に頭を痛めた彼は、自社のトラクター工場でフェラーリを修理することを思いつきます。いざクラッチを分解してみると、使われていたのはなんと自社のトラクター用パーツと同型のボーグ&ベック製のクラッチ板であり、しかも全く同一のパーツにフェラーリはトラクター用の十倍の値段を付けていました。フェラーリは当時すぐに壊れたので、自分でフェラーリに負けないようなスーパーカーを作りたいとフェルッチオ氏は考えました。

元々、優秀なメカニックでもあった彼は、クラッチ修理と同時にフェラーリに装着されていたウェーバー製のダウンドラフト型キャブレターをサイドドラフト型の物に改め、シリンダーヘッドをオリジナルのSOHCから当時は市販のフェラーリに採用されていなかったDOHCに改造しました。完成した車は公道でのテスト走行中の新型フェラーリを「カモ」にできるほど速かったそうえす。

既存のエキゾチックカーに少なからず不満を抱いていた彼は、これがきっかけで自動車ビジネスに乗り出す決意をしたといわれています。前述のフェラーリのパーツに見られるような高額な価格設定に触れ、「この商売は儲かる」と踏んでもいました。フェルッチオはこのとき、有望なビジネスモデルとして高級車業界を見ており、スポーツカーへの愛情とその財力を背景にアウトモービリの創設を決意しました。

Lamborghini 350 GTV
Craig Howell from San Carlos, CA, USA;(cropped and adjusted by uploader Mr.choppers) - Lamborghini 350 GTV, CC 表示 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=17959174による


この1963年(47歳)トリノショーに出品された350GTVは非常に目を引く独創性にあふれたフランコ・スカリオーネ(Franco Scaglione)のデザインによるボディラインを持ち、性能面や上質なインテリア等で一定の評価を得ましたが、居住性やGTとしての使い勝手で酷評を受けました。 この評を受けてすぐにフェルッチオは根本的な改修を指示、翌年カロッツェリア・トゥーリング(Carrozzeria Touring)により手直しを受けたボディを纏った市販車としての第一号350GTをロールアウト。ここに市販車メーカーとしてのアウトモービリ・ランボルギーニの歴史は幕を上げました。

左がスカリオーネ。右は1953/54年、アーノルト・アストン・マーティンDB2/4に乗るヌッチオ・ベルトーネ。
By Unknown photographer - [1], Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=82180599
ランボルギーニ・350GT
Stahlkocher - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=728903による


当初こそ、伝統のあるマセラティフェラーリを引き合いに出されてはトラクターメーカーとしての出自を揶揄されましたが、翌年に後継の400GTがロールアウトされる頃になると独創的なスタイルと快適性の高次での両立がエグゼクティブの間で話題となり、350GTは130台以上、400GTでは250台以上、当時の超高級GTとしては非常に良好なセールスを記録しています。この後1966年(50歳)のランボルギーニ・ミウラ、1971年(55歳)のランボルギーニ・カウンタック(クンタッシ)と有名な車を次々と送り出し、世界的スーパースポーツのブランドとなりました。

ミウラ
Y.Leclercq - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=70787911によるミウラ
ランボルギーニ・カウンタック(クンタッシ)
Countachinfo.de - 投稿者自身による著作物, CC 表示 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=12703315による



年表

1962年4月(46歳)
農業機械(トラクター)製造で成功を収めていたフェルッチオ・ランボルギーニが設立。

1963年10月26日(47歳)
トリノ・オートショーで1号車になる「350GTV」を発表。

1971年8月(55歳)
ボリビアで起こったクーデターにより、親会社であるランボルギーニ・トラットリーチ SpAと前政府との間に結ばれていた、5000台のトラクター購入に関する契約を破棄される。資金難に陥ったランボルギーニ・グループはランボルギーニ・トラットリーチ SpAの全株をフィアットに移譲。自動車部門の株式51%をスイス人投資家のジョルジュ=アンリ・ロゼッティ(Georges-Henri Rossetti)に売却。

1974年9月(58歳)
石油ショックの影響から、ロゼッティの友人であるレイネ・レイマーに残り49%の株式を売却し、創業者フェルッチオ・ランボルギーニの手から離れる。

1978年4月(62歳)
BMWから委託されていたM1の生産の遅れから契約を破棄され倒産。イタリア政府の管理下に置かれる。

1981年(65歳)
フランスの実業家パトリック・ミムランが250万ドルで購入。

1987年(71歳)
クライスラー傘下となる。

1993年10月(フェルッチオ氏は1993年に死去)
インドネシアの新興財閥であるSedtcoグループのメガテックに譲渡。

1999年
アウディ傘下となる。アウディ・グループの意向でそれまでドイツのフィアットAGに在籍していたシュテファン・ヴィンケルマン(Stephan Winkelmann)がCEOに就任。ガヤルドムルシエラゴのデザインをルク・ドンカーヴォルケLuc Donckerwolke:今は、スペインの自動車メーカーセアトに在籍している)が手がけた。以降は、アウディ・グループ内のデザイン部門主任、ワルテル・デ・シルヴァ(Walter Maria de' Silva)が務める。

2001年
ランボルギーニミュージアムがオープン。


2013年
ランボルギーニ創立50周年。記念イベントとして、ミラノからローマ、そして本拠地へと戻るパレード「グランデ・ジロ」を開催した。同パレードのため、世界各地からミラノに350台にも及ぶランボルギーニが集結したという。

2016年3月
スクーデリア・フェラーリの元チーム代表・ステファノ・ドメニカリがCEOに就任。

2020年12月
ステファノ・ドメニカリに代わり、ブガッティ・オトモビル代表のステファン・ヴィンケルマンがCEOを兼任。

2023年
ランボルギーニ創立60周年。



フェルッチオ・ランボルギーニ(Ferruccio Lamborghini)

フェルッチオ・ランボルギーニ(1970年)
不明 - archivio, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=34896960による

フェルッチオ・ランボルギーニ(Ferruccio Lamborghini, 1916年4月28日 - 1993年2月20日)はイタリアの自動車メーカーアウトモービリ・ランボルギーニS.p.A.(Automobili Lamborghini S.p.A)の設立者。

フェルッチオ氏は、1916年4月28日、ボローニャ市近くのレナッツォ(Renazzo)(エミリア=ロマーニャ州フェラーラ県チェント市内)の裕福な農家に生まれました。

家業には興味を持たず、幼いころから機械好きで工科大学に進学。卒業後の1939年に徴兵され自動車部隊の配属となり、イタリア植民地だったギリシャのロドス島に送られました。

島では総督の運転手を務めました。1944年に捕虜となり戦後、除隊後は島で修理工場を営み、1946年、33歳でイタリアに帰還。

帰国後は軍放出のトラックを元にトラクターの製造販売を行いました。1949年(33歳)にランボルギーニ・トラットーリ(Lamborghini Trattori)社(ランボルギーニ・トラクター社)を設立。1963年(47歳)、アウトモービリ・ランボルギーニS.p.A.を設立し自動車の製造販売に乗り出しました。

ボリビアのクーデターにからむトラクター売買契約のキャンセルから資金難に陥り、1971年(55歳)ランボルギーニ・トラットーリ社を売却。アウトモービリ・ランボルギーニS.p.Aの.株の51%を手放し再建を図るも1972年に訪れたオイルショックにより、1974年に残りの49%も手放し自動車業界から引退。晩年は旅行中にひと目ぼれした土地を購入し、ワイナリー、テヌータ・ランボルギーニを設立。人生最後にとワイン作りやバラの栽培に情熱を傾けていました。

1993年2月20日、心臓発作で死去。76歳。


俗説

フェルッチオが自動車製造に進出するきっかけになった事件として、以下のような俗説が伝わっています。

エアコンとトラクターで当てたフェルッチオは、憧れのフェラーリを購入。一度、御大・エンツォに会って話をしたいと思い訪れましたが、エンツォはフェルッチオを門前払い。プライドを傷つけられたフェルッチオは「フェラーリ以上の車を作って見返してやる」と心に誓いました。

トラクターの製造販売で財を成したフェルッチオは、当時のイタリア成金の例に漏れずフェラーリを購入。そのフェラーリが故障した際に、送られてきたパーツがランボルギーニ・トラットーリ社で使っていた部品(ボーグ&ベッツィ製クラッチと言われる)と同じ上に10倍の値段が付いていたことに激怒。フェラーリに乗り込み苦情を言ったが、成金のたわ言と鼻であしらわれ、自身で自動車の製造販売に乗り出すことを決意しました。(実際は「同じ部品が10倍で売れる自動車はビジネスになる」と、自動車製造に乗り出す)。

この俗説の真偽のほどは定かではないようです。しかしフェルッチオ氏は若い頃から熱心なカーマニアで、一時はチューニングカーガレージの経営までしていた点や、当時のフェラーリ・ストラダーレの品質は決して高くなかった点、にもかかわらずフェラーリの販売台数が年間5000台近い規模に膨らんでいた点などを考えれば、全くの的外れとも言えず、事実を下地に多少ドラマチックに仕立てた伝説的俗説と言われています(*2)。

「レースには出ない」と言う社是は、自身がレースで大けがをしたことや、当時レースに興味を持っていた息子を刺激したくなかったということもあるが、目指していたものがフェラーリのようなレーシングスポーツカーではなく、快適で高品質・高性能なGT(グラン・トゥリズモ)だったからからでした。

エアコンメーカーでもあったので「いくら性能が良くても、暑さで隣のご婦人のマスカラが取れてしまうような車はダメだ」と、全車にエアコンを設置していました。

2003年頃、日本の自動車雑誌「GENROQ」(三栄書房)の企画で、漫画家の池沢さとしがランボルギーニ夫人の元へ取材に赴いた際には、フェルッチオがエンツォにあしらわれたという俗説は、事実とは異なると夫人は否定しています(実際、エンツォとフェルッチオは4回会談しています)(ちなみに、取材場所は、ランボルギーニ家の経営する農場だったが、ランボルギーニ夫人は、白いLP400(当然MT仕様)を自分で運転して現れたそうです。)。

彼女によると、フェルッチオがフェラーリのオーナーとなり、実際に使用した結果、その品質に疑問を持った点までは事実だが、工業機械メーカーのオーナーらしく、彼の考えた改善案を書簡としてエンツォ・フェラーリに送ったが、丁重な断りの返事が届いたのだそうです。

そのため、高級GTの利益率が意外と高いこともあわせて、それならせっかくなので自分で商売としてやってみようと、一発奮起してチャレンジした、というのが真相なのだとか。

また、フェルッチオは、俗説から非常に短気というイメージが強いが、夫人によると、短気ではあるものの独善的・排他的な性質は全くなく、単にチャレンジ精神旺盛で決断力に富んでいたのだそうです。 事実、部下からの提案もやみくもに突っぱねるのではなく、当時のチーフエンジニア・ジャンパオロ・ダラーラ(Giampaolo Dallara)からミッドシップ2座スポーツカー「ミウラ」開発を進言された時も、一旦は話を聞き腕を組んで考え、自分の理想論とは違っていても「まあいい。どうせそんな車、売れないんだから」と容認していました。

2022年、フェルッチオ・ランボルギーニの生涯を描いた映画「Lamborghini :The Man Behind the Legend」がイタリアをはじめ全世界で公開。主演はフランク・グリロ。記念にテヌータ・ランボルギーニでは『Lamborghini The Legend』というシャンパン製法のスパークリングワインを制作。限定販売しました。


フェルッチオ氏のモットー

「(前略)…私は、多くのグラン・トゥリズモの中に、いくつかの欠点を見いだした。暑すぎたり、乗り心地が悪かったり、十分に速くなかったり、仕上げが完全でなかったりするのだ。今や私は欠点のないグラン・トゥリズモを造りたい。技術的な化け物ではなく、正常で、非常に常識的で、しかも完璧なクルマを。」


ロゴの歴史

1953 – 1963

Image source: BrandCrowd

ランボルギーニ・ブランドが設立される前、フェルッチオ・ランボルギーニはランボルギーニ・トラットーリというトラクター会社を経営していました。この会社のロゴには、フェルッチオの星座である牡牛座にインスパイアされた突進する雄牛が描かれていました。

しかし、最初のロゴには突進する雄牛は描かれていませんでした。最小限の要素で構成されたシンプルな幾何学的ロゴでした。ブランドの最初のロゴは、F、L、C(フェルッチオ・ランボルギーニ・チェントの略)を含む3つの三角形のピラミッドでした。


1963 – 1972

Image source: BrandCrowd

ランボルギーニの最初の公式ロゴは1963年に作られました。ワードマークの上には盾のロゴがあり、その内側にも白と黒のチャージングブル()のロゴ。盾の背景は赤で、黒と白のアウトラインが描かれています。


1972 – 1974

Image source: BrandCrowd

1972年、ランボルギーニは以前のロゴを簡略化したものを発表。ワードマークは盾の内側に入り、フォントはよりモダンで洗練されたもの(サンセリフ体)になりました。牡牛は白と黒のロゴから金色になり、盾の金色と黒のバナーを引き立てています。

このロゴバージョンは2年しか続きませんでした。

1974 – 1998

Image source: BrandCrowd

ワードマークはサンセリフ体の斜体になり、エンブレムは突進する雄牛の黒と白のシルエットに簡略化されました。

大文字のサンセリフ体ワードマークが、雄牛のロゴを内側に配した盾のシンボルに添えられています。このバージョンは、アメリカのクライスラー社がランボルギーニを所有していた1994年に変更されました。


1998 –2024年現在

Image source: BrandCrowd

ランボルギーニのロゴは、1998年に最新のアップデートが行われました。

エンブレムも改良され、雄牛はより立体的で生き生きとした外観となり、鮮やかなゴールデンイエローになりました。

まとめ

Character Type Foundryという書体カスタム・販売メーカーがランボルギーニの書体をデザインしているという記事をウェブサイトでアップしてるのですが、ウェブサイトではGoogleのRobotoが使用されています。


関連記事

https://note.com/shijimiota/n/na6187796c97c



参照

※1

※2

*3

*4


*5

*6

Others


よろしければサポートをお願いします。サポート頂いた金額は、書籍購入や研究に利用させていただきます。