《週末アート》 白黒版画で有名なヴァロットン(実は絵画が素敵)
《週末アート》マガジン
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三菱一号館美術館で開催中『ヴァロットン—白と黒展』
2023年1月29日日曜日まで東京駅近くにある三菱一号館美術館で開催している『ヴァロットン—白と黒展』。
三菱一号館美術館は、ヴァロットンの版画を世界的にも誇るほどのコレクションを所有しています。あともう少しで終わりですが、ではヴァロットンとはどんな画家なのか? なぜ黒一色の版画が「革新的」と言われたのか?を今回はさらっと解説していきます。加えて、わたしはヴァロットンの絵画のほうが好きなので、そちらも少し紹介していきます。そのまえに開催している美術館についても触れてみたく思います。
三菱一号館美術館
三菱一号館は、1894年に建設され、銀行や商社、郵便局が入居していましたが、1968年に老朽化のため解体された建物です。解体を請け負った三菱地所が、2009年に美術館として復元したものが、現在の三菱一号館美術館です。
最初の三菱一号館は、明治政府の建築顧問だったイギリスの建築家、ジョサイア・コンドル(Josiah Conder)による設計でした。
コンドル氏により、三菱一号館は、イギリス・クイーン・アン様式の外観を持つ煉瓦造の建築物として設計されました。
クイーン・アン様式
クイーン・アン様式(Queen Anne style architecture)とは、アン女王(在位1702年から1714年まで)の時代のイギリス・バロック建築、または19世紀末から20世紀初頭にかけて流行したイギリス・クイーン・アン・リバイバル様式です。
三菱一号館が再建された経緯は、2004年に三菱地所は同社の計画「丸の内再構築」の一貫として「丸ノ内八重洲ビルヂング」(1928年竣工)・「古河ビルヂング」(1965年竣工)・「三菱商事ビルヂング」(1971年竣工)3棟の区画を再開発し、その一角に超高層ビル(丸の内パークビルディング)の建設。それとあわせて三菱一号館を復元する「三菱商事ビル・古河ビル・丸ノ内八重洲ビル建替計画」に沿ったもの。
イケメン、ヴァロットン
フェリックス・ヴァロットン(Félix Edouard Vallotton)は、1865年生まれ。1925年に死去。享年60歳。死因は、ガンの手術。)スイスの画家、グラフィック・アーティスト、現代木版画発展期の重要な人物。
経歴
1865年 ローザンヌの保守的な中流の家庭に生まれる。
1882年(17歳) ローザンヌ・カントナル大学に進み、古典研究の単位を取得。同年、アカデミー・ジュリアンのジュール・ジョゼフ・ルフェーブルとギュスターヴ・ブーランジェの下で学ぶため、パリに移る。ルーヴル美術館に入り浸って、ドイツの画家、ハンス・ホルバイン、アルブレヒト・デューラー、フランスの画家、ドミニク・アングルに魅せられる。これらの画家たちは、ヴァロットンの一生涯の手本ともなった。ヴァロットンの初期の絵のアングル風の『Portrait de Mr Ursenbach(ウルゼンバッハ氏の肖像)』(1885年:20歳)などは、アカデミックな伝統にしっかりと根付いている。
1886年(21歳) 『Autoportrait(自画像)』がサロンから名誉賞を与えられた。
1886–1896年(21–31歳) ヴァロットンは絵を描き、美術批評を書き、多数の木版画を作る。彼の最初の木版画は、1891年(26歳)のポール・ヴェルレーヌの肖像だった。
1890年代に作った多くの木版画は新聞や本に載り、ヨーロッパのみならずアメリカまで、広く普及し、版画を革新したとまで言われた。ヴァロットンは芸術表現としての木版画をリヴァイヴァルさせ、そのリーダーとしての評価を得た。それまでの西洋の版画印刷は、独創性のあるののではなく、素描画、彩画、写真の絵柄の再生産に長く利用されてきていたため。
ヴァロットンの飾り気のない木版画のスタイルは、むらのない黒の大きなかたまりと階調のない白の面画が特徴的。輪郭とフラットなパターンを重要視する一方で、グラデーションや、ハッチング(陰影線)による伝統的な立体感表現をほとんど使わなかった。ポスト印象派、象徴主義、そして日本の版画の影響があった。浮世絵の大々的な展覧会がエコール・デ・ボザールで開かれたのは1890年。ヴァロットンも浮世絵をコレクションしていた。
ヴァロットンは、街の群衆や街頭デモの風景(警察がアナキストに突入する場面もある)、入浴する女性、頭肖像、その他、彼が嘲笑的なユーモアで扱った主題などを描写した。
ヴァロットンのグラフィック・アートは、1898年にルヴュ・ブランシュから出版された、10枚からなる『Intimités(親交)』シリーズで頂点に達した。
https://www.moma.org/collection/works/64104
このシリーズ男と女が緊張感を持って描かれている[3]。ヴァロットンの版画はムンク、ビアズリー、キルヒナーのグラフィック・アートの少なからぬ影響があるとも言わる。彼の最後の木版画は1915年(50歳)の『C'est la guerre(これが戦争だ)』シリーズ。
https://www.moma.org/collection/works/60311
ヴァロットンは1892年(27歳)の時点で既にナビ派に参加していた。
ナビ派
ナビ派(Les Nabis)は、19世紀末のパリで活動した、前衛的な芸術家の集団。「ナビ」はヘブライ語で「預言者」。
ナビ派の誕生のきっかけとなったのは、1888年(ヴァロットンが23歳)、パリのアカデミー・ジュリアンの学生監を務めていた画家ポール・セリュジエ(Paul Sérusier)が、ブルターニュを訪れた時、ポール・ゴーギャンから指導を受けたこと。ゴーギャンは、若いセリュジエと森の写生に赴いた際、「あの樹はいったい何色に見えるかね。多少赤みがかって見える? よろしい、それなら画面には真赤な色を置きたまえ……。それからその影は? どちらかと言えば青みがかっているね。それでは君のパレットの中の最も美しい青を画面に置きたまえ……。」と助言したという(※1)。アカデミーで正確な外界表現を教えられていたセリュジエにとっては、ゴーギャンの説く大胆な色彩の使用は衝撃であった。セリュジエはその日の夜行電車でパリに戻り、アカデミー・ジュリアンの仲間であるピエール・ボナール、エドゥアール・ヴュイヤール、モーリス・ドニ、ポール・ランソンにゴーギャンの教えを伝え、共鳴した彼らによってナビ派のグループが形成された。その後、アカデミー・ジュリアンの外からも、ゴーギャンの友人アリスティド・マイヨール、オランダ出身のヤン・ヴェルカーデ、スイス出身のフェリックス・ヴァロットンといった若者がグループに加わった。
ナビ派の特徴は、自然の光を画面上にとらえようとした印象派に反対し、画面それ自体の秩序を追求したところ。
ナビ派のメンバーのピエール・ボナール、ケル・グザヴィエ・ルーセル、モーリス・ドニ、エドゥアール・ヴュイヤールらは、ヴァロットンの生涯の友となった。
1890年代、ヴァロットンの彩画はフラットな色面、ハード・エッジ、ディテールの簡素化など、木版画のスタイルを反映していた。風俗画、肖像画、裸体像などを主題にした。ヴァロットンのナビ・スタイルの例としては、意図的に下手に描いた『夏の夕べの水浴』(1892年 - 1893年。チューリヒ美術館所蔵)や象徴主義的な『月の光』(1895年。オルセー美術館所蔵)。
1899年(34歳)頃は、木版画の仕事は減っていた。この頃、ヴァロットンは、写実主義の開発に専念していた。ヴァロットンの『ガートルード・スタインの肖像』(1907年)は、前年にピカソが描いた肖像画への返答として描かれた。ガートルード・スタイン(Gertrude Stein)は、アメリカ合衆国の著作家、詩人、美術収集家。
パブロ・ピカソのガートルド・スタインはこちらのリンク先(MoMA)で観られます。
ポスト=ナビ期のヴァロットンの絵はファンを獲得、その誠実さ、その技術的クオリティは尊敬を受けたものの、スタイルの地味さはたびたび批判の対象となった。
美術批評の出版も時々だが続けていたが、それ以外の著作にも手を広げた。たとえば8つの戯曲を書き、そのいくつかは1904年と1907年に上演されたが、批評的には不評だった。他に3冊の小説も書いた。その1冊、半自伝的な『La Vie meurtrière(殺意の人生)』は、1907年から書き出したが、出版されたのは死後だった。
晩年、ヴァロットンは静物画や「合成風景画」に力を入れた。後者は、写生するのではなく、アトリエで記憶と想像から創作する風景画のことである。1925年、パリで、ガンの手術後に死亡。その日は60歳の誕生日の翌日だった。
ヴァロットンの絵画
まとめ
ヴァロットンは作品は多彩で、版画やナビ派的な要素を単純化したものもあれば、古典的な写実主義な作品もあり、その両方を見て取れるものもあります。風刺的な要素がないとき、いくぶん暗くカサついた作品もあったりしますが、わたしは彼が36歳のときに書いた『ワードローブで探しものをする女』という作品が好きです。光の色に温度と湿度を感じ、とてもリアルにみえるのに筆のタッチが見て取れるほどに粗い。不思議なこの絵は、なんとなくトーマス・デマンドの作品を思い出させるのですが、他にも誰かの作品を彷彿させる気がするのですが、そちらは思い出せないままです。
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参照
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