《週末アート》「サロメ」を描いた裕福な画家、ギュスターヴ・モロー
《週末アート》マガジン
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ギュスターヴ・モロー
ギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau)。
生没:1826年4月6日 - 1898年4月18日
誕生国:フランス王国、パリ
死去国:フランス共和国、パリ
フランスの象徴主義の画家。パリに生まれ、パリで亡くなっています。聖書や神話に題材をとった幻想的な作風で知られています。
印象派の画家たち(ドガ、モネ、マネ、カミーユ・ピサロ、メアリー・カサットなど)とほぼ同時代に活動したモローは、聖書やギリシャ神話をおもな題材とし、想像と幻想の世界を多く描きました。彼の作品は19世紀末のいわゆる『世紀末』の画家や文学者に多大な影響を与え、象徴主義の先駆者とされています。
象徴主義
象徴主義(フランス語: symbolisme)とは、自然主義や高踏派運動への反動として1870年頃のフランスとベルギーに起きた文学運動および芸術運動です。
象徴主義者を総称して「象徴派」(仏: symbolistes)と呼びます。ロシア象徴主義の開祖となった詩人ワレリー・ブリューソフなどにより、この運動はロシアにまで輸出されました。
「象徴主義」という言葉は、フランスで活動した詩人ジャン・モレアスが、1886年に発表した「象徴主義宣言」に由来しています。
19世紀後半は、科学技術の飛躍的な進歩により、ヨーロッパの人々の生活が大きく変化した時代でした。物質主義や享楽的な都市生活がもてはやされる風潮に反発し、人間の内面に目を向けようとしたのが象徴主義の芸術家たちでした。
同じ時期に印象派という芸術運動がありましたが、印象派の芸術家たちは目に見えるものを忠実に画面に写し取ろうとしたのに対し、象徴主義の芸術家たちは目に見えないものを描き出そうとしました。
象徴主義は、人間の苦悩や不安、運命、精神性や夢想などの形のないものを、神話や文学のモチーフを用いて象徴的に描いていることに特徴があります。※2
目に見えないものを追い求めるその姿勢は、のちのアール・ヌーヴォーやナビ派、ウィーン分離派などの世紀末技術に影響を与えました。
象徴主義の画家たち
オディロン・ルドン
ギュスターヴ・モロー
グスタフ・クリムト
ジョン・エヴァレット・ミレー
ラファエル前派
フランスとベルギーの象徴主義に先駆けて、イギリスではラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood)が現れました。ラファエル前派とは、イギリスのロイヤル・アカデミー付属美術学校の学生であったダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、ウィリアム・ホルマン・ハント、ジョン・エヴァレット・ミレーの3人が、学校が盛期ルネサンスの芸術家、ラファエロ・サンティの絵画に固執し、それ以外の新しい表現を認めない方針に対して不満を抱き、1848年に、ラファエロ以前の美術に回帰しようとして結成したグループです。
ギュスターヴ・モローの生涯
1826年、パリに生まれます。父は建築家ルイ・モロー(Louis Moreau)。母は音楽家。体が弱く、6歳のころから素描(そびょう)をして遊ぶようになる。
1843年(17歳)に最初のイタリア旅行をしました。1844年(18歳)にフランスの画家、フランソワ=エドゥアール・ピコの弟子となりました。
1846年(20歳)、エコール・デ・ボザール(官立美術学校)に入学。1848年(22歳)と1849年(23歳)に2度にわたりローマ賞のコンクールに挑戦し失敗。その後、エコール・デ・ボザールを退学。親交のあった画家、テオドール・シャセリオーをはじめとしたロマン派(18世紀末から19世紀前半にヨーロッパで精神運動のひとつで、それまでの合理主義などに対し、感受性や主観に重きをおいた運動です。恋愛賛美、民族意識の高揚、中世への憧憬といった特徴をもち、近代国民国家形成を促進した)の画家から影響を受ける。シャセリオーの様式的影響は『雅歌』や『アルベラの戦いから逃亡したのち、疲れて足を止め池から水を飲むダリウス』に見られます。
モローは、すでに1849年(23歳)から1854年(28歳)までのあいだにいくつかの注文を当時のフランス政府から受注しています。
1852年(26歳)に『ピエタ』をサロンに出品する(サロン初出品)。1855年(29歳)には『クレタ島の迷宮の中のアテナイの若者たち』(ブルー美術館)を描き、パリ万博に出品しました。
1857年9月(31歳)、モローは私費でローマへ留学します。1859年(33歳)まで続くこの二回目のイタリア旅行で、モローはローマ、フィレンツェ、ミラノ、ピサ、シエナ、ナポリ、ヴェネツィアを訪れました。このときモローはティツィアーノ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、システィーナ礼拝堂のミケランジェロの壁画を模写しています。
イタリア滞在中の1858年頃、モローはエドガー・ドガと知り合いました。
1860年代の最初の数年をモローは『オイディプスとスフィンクス』(メトロポリタン美術館)の制作に費やしました。
この作品をモローは1864年(38歳)、サロンに出品しました。この絵は当時の保守的なサロンでは物議をかもしますが、賞牌(しょうはい)をモローにもたらし、さらにナポレオン公が購入しました。
1886年(60歳)にパリのグーピル画廊で開かれた水彩画展に出された『聖なる象(ペリ)』はモローの水彩画技法最良の部分を示しています。
高い評価を集めた同展はラ・フォンテーヌの『寓話』にもとづく水彩画連作と七点の独立した主題の作品で構成され、モローの生前唯一の個展となりました。
晩年、モローは次第にサロンから遠ざかり、パリのラ・ロシュフーコー街の屋敷に閉じこもって黙々と制作を続けました。1898年(72歳)死去。
生前のアトリエには油彩画約800点、水彩画575点、デッサン約7000点が残っていました。彼が1852年から終生過ごしたこの館は、遺言により「ギュスターヴ・モロー美術館」として公開されています。
オルフェウスとサロメ
ギュスターヴ・モローといえば、前述の『オイディプスとスフィンクス』のほかに『出現』(The Apparition)が有名です。
この絵は、新約聖書の洗礼者聖ヨハネとサロメのエピソードをモチーフとしたものです。
サロメは、古代イスラエルの領主であるヘロデ・アンティパス王の妻ヘロディアが前夫との間に生んだ娘です。伝説によるとヘロデ王は自分の誕生日に祝宴を催して有力者たちを招き、その宴の席でサロメが舞踏を披露します。その舞踏に対して、ヘロデ王はサロメに望むものを何でも褒美として与えようと言いました。サロメが母のもとに行き、何を願うべきか尋ねると、ヘロディアは「洗礼者ヨハネの首と言いなさい」と娘に言いました。
当時、ヘロデ王は実兄の妻であったヘロディアを娶ったため、それをヨハネから厳しく批判されていました。サロメは父のもとに行き、母の言葉に従って「洗礼者ヨハネの首を所望します」と伝えました。そこでヘロデ王は兵に命じて獄中のヨハネの首を取って来させました。
『新約聖書』ではヘロデ王の娘の名前は明言されていないのですが、フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ古代誌』ではサロメとなっています。この物語は19世紀末に好まれたが、中でもオスカー・ワイルドが大胆な解釈で戯曲化したことで《宿命の女=ファム・ファタール》として広く知られることになりました。
オスカー・ワイルドが戯曲化したきっかけが、ギュスターヴ・モローの描いた『出現』でした。オスカー・ワイルドの戯曲にオーブリー・ビアズリーが描いたサロメも有名です。
ギュスターヴ・モローの描く『サロメ』
ギュスターヴ・モローは1874年(48歳)から1876年(50歳)にかけてサロメを描きました。水彩画や油絵などで、いくつかのサロメを描いています。
洗礼者聖ヨハネ以外の生首「オルフェウス」
生首を持つ少女=サロメではなかったりします。モローの作品のこちらの生首は、ギリシャ神話のオルフェウスです。サロメを描いた『出現』より10年ほど前に描かれています。
オルフェウス
オルフェウスは、ギリシア神話に登場する音楽家です。芸術の女神ムーサのひとりカリオペとオイアグロスあるいはアポロンの子で、長じて吟遊詩人となり、その歌声は岩や木々を動かしたと伝えられています。
オルフェウスのもっとも有名なエピソードは、蛇に咬まれて死んだ妻エウリュディケを連れ戻すために冥府へ下るという物語です。オルフェウスは、冥府の王ハデスを説得し、決して振り返って妻の姿を確かめようとしてはならないという条件でエウリュディケを連れ出しますが、地上に戻る途上で禁を破ってしまったため、彼女を永遠に失ってしまいます。
妻を失ったオルフェウスは女性との愛を絶ち、オルフェウス教を広め始めます。ディオニュソス(ギリシア神話に登場する豊穣とブドウ酒と酩酊の神)がトラキアに訪れたとき、オルフェウスは新しい神を敬わず、ただヘリオスの神(オルフェウスはこの神をアポロンと呼んでいました)がもっとも偉大な神だと述べていました。これに怒ったディオニュソスは、マケドニアのデーイオンで、マイナス(maenad:「わめきたてる者」を語源とし、狂暴で理性を失った女狂乱する女)たちにオルフェウスを襲わせ、マイナスたちはオルフェウスを八つ裂きにして殺しました。
オルフェウスの首はマイナスっちにヘブロス河に投げ込まれます。オルフェウスの首は、歌を歌いながら河を流れくだって海に出、レスボス島まで流れ着きます。オルフェウスの竪琴もレスボス島に流れ着きます。
島人はオルペウスの死を深く悼み、墓を築いて詩人を葬りました。以来、レスボス島はオルフェウスの加護によって多くの文人を輩出することとなりました。また、彼の竪琴はその死を偲んだアポロンによって天に挙げられ、琴座となりました。
モロー以外のサロメ
サロメは人気のモチーフで、ギュスターヴ・モロー以外の画家たちも描いています。
ルカス・クラーナハのサロメ
ルカス・クラーナハ(Lucas Cranach der Ältere)(1472年– 1553年)は、ルネサンス期のドイツの画家。
アンドレア・ソラリオ(Andrea Solario)のサロメ(1507-1509)
レオナルド・ダ・ヴィンチのミラノで学んだソラリオは、1507年にフランスに渡り、ダンボワーズ枢機卿のもとで働きました。そこで彼はネーデルラント絵画を深く学びました。この驚くべき絵の中でソラリオは、サロメの理想化された美しさと宝石と、処刑人の切り落とされた腕に吊り上げられた聖ヨハネの恐ろしい頭部とを対比させることによって、印象的な効果を成功させています。
アニメ『アンデッドガール・マーダーファルス』
アニメ『アンデッドガール・マーダーファルス』の第一話には、ギュスターヴ・モローの『出現』やオーブリー・ビアズリーの『サロメ』のための挿絵をモチーフとしたシーンが登場します。
まとめ
ギュスターヴ・モローの『出現』はとても人気でした。上記の通り、それ以前から欧州では「生首と少女」というモチーフが好まれ、サロメ以外にもオルフェウスやユディトというモチーフで生首と少女は描かれています。
時代を越えて人々(とくに男性)を喜ばせるモチーフなのでしょう。いつか生首特集をしたいものです。それにしてもなぜ生首と少女というモチーフは好まれるのか、知りたく思います。
ギュスターヴ・モローは裕福だったのですが、サロンに出典するは購入はされるはと、その順風満帆っぷりには印象派たちは嫉妬したのではないでしょうか。それについても掘り下げてみたいです。
山田五郎さんのギュスターヴ・モローについてのYoutube動画もとてもおもしろいです。
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参照
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https://media.thisisgallery.com/20190407
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