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欧米と日本に「デザイン格差」はある?

ビジネスに使えるデザインの話

ビジネスにデザインの知識はけっこう使えます。苦手な人も多いから1つ知るだけでもその分アドバンテージになることもあります。noteは毎日午前7時に更新しています


欧米と日本にデザインの格差はあるのか?

答えは、

「ばっちりある」と感じている

です。私見といえば私見だし、明確にその差を測る手段からデザインした話ではないし、しかもわたし、べつに欧米に住んでいません。ならば、何を根拠にそんな話をするのかというと、わたしはデザインとアートを日々を解説していますが、その情報源のほとんどが海外(といっても英語圏)です。そうして、海外の情報に日々触れていると日本では、ニュースとして扱われないようなデザインの記事をデザイン業界ではないメディアが扱っているのをときどき目にします。 たとえば、オバマ前大統領のキャンペーンに使われた書体「Gotham」(ゴッサム)について、2013年まであったインターナショナル・ヘラルド・トリビューン紙が、その選択を「現代的な洗練とアメリカの過去への郷愁と義務感の、暗黙の了解とはいえ強力な組み合わせ」と賞賛しています。このように、どんな書体を選んでいるか、なんてことを一般紙が扱うこと、書体やデザイン、アートに対してのリテラシーなどなど、日々、日本と欧米との差を感じます。

インターナショナル・ヘラルド・トリビューン紙の表紙
By http://en.kiosko.net/eur/2010-02-15/np/int_herald_tribune.html, Fair use, https://en.wikipedia.org/w/index.php?curid=57636409

デザインというよりも、1つには、「見た目の大切さ」をいくぶん軽視している傾向があります。2つめには、「アートというものは生産性に関係のない、優先順位の低いもの」という価値観があるのではと推測しています。

日本文化は見た目を大切にするのか、しないのか

おもしろいくらい色がすくない街のひとびと
画像引用:アソビュー

日本に住み、日本文化に準拠している方々の服装を観るには、街へ出てすれ違う人々をみれば良いでしょう。海外のそれも同様。すると欧米に比べて、かなり「きちん」としている印象を受けます。清潔感があり、ボロボロやダブダブの服をまとっている方はあまりみかけません。その一方で、スーツやドレスの着こなしは、欧米のほうがずっとレベルが高い。加えて、日本人の見た目のユニークなところなんですが、

皆、似た服装

をしているところです。特に冬の日の東京を歩くとそれを感じます。外套に色がないんです。傘は透明です。それが駄目だという話では有りません。これは文化の違いの表れです。現代の日本の文化の多くが江戸時代をベースにしている部分が多い(もちろん私見ですが)と考えています。わたしたちは、あまり色があるものを好んで身に付けない傾向がありますが、これは肌の色によるというよりは(なぜなら平安時代の貴族たちは色をよく使った出で立ちをしていたから)、派手なものを着るな!という法律があった歴史の影響から生まれたものだと推測しています。

ニューヨークもヨーロッパも色が服装には色が多い
source: gothamist


江戸幕府は国民を貧乏にする為政を行って長らえた

徳川家康の為政はすごく良く機能したのではないでしょうか。その一方で日本人へ植え付けた価値観は未だに根強く残っています。
画像引用:nippon.com

徳川家康は、明智光秀の織田信長に対する謀反で辛酸をなめ、そのとき国民にお金を持たせないようにしたほうが、幕府は安泰を保てると考えたのではないと言われています(※1)。そこそこ食べていける状態にしておけば、謀反は起こらない、その代わりにプライドを形成しよう、ということで打ち立てのが士農工商というヒエラルキーです。とても良くできた価値観の創造でした。

江戸幕府ができて、早速お触れをだしたこんな禁止令がありました。

奢侈禁止令(しゃしきんしれい)

贅沢をしちゃいけないという禁止令です。具体的には、庶民は、茶色、鼠(ねずみ)色、藍色などの色しか身につけてはいけないというもの。思うに、この結果、こんな言葉が生まれたのではないでしょうか。

襤褸(ぼろ)を着ても心は錦

見た目が地味なら、心を変える。これは認知的不協和によって発生しえる価値観の変容です。このあたりから、見た目より中身!という価値観が定着していったのではないでしょうか。その結果、見た目を軽視する(そのかわり中身を重視する)傾向が、今でも根強く残っているのではないでしょうか。


アート軽視が生まれたのは第二次世界大戦後

もう一つ、日本人がアートを軽視するようになったのは、第二次世界大戦後の復興時だったのではないかと推測しています。池田勇人内閣が1960年に掲げた所得倍増計画が象徴的ですが、明治維新あたりからずっと列強国に肩を並べようと切磋琢磨してきた為政とそれに答えようとしてきた国民の気運は、生産性に関係のなさそうなものを後回しにする傾向を強めたのではないでしょうか。勉強には必要ない、経営には必要がない、と。実際、即物的にはあんまり必要がないんです、アートも倫理も哲学も。しかしヨーロッパでは、経営には、このあたりの「一見役に立たなそうな」知識を軽視しない教育を一部行っています。(ナポレオンの功績も大きいかも。)

このアートと見た目の軽視が、日本と欧米でのデザインやアートのリテラシーの格差の根底にあるものだと考えています。

「それに何か問題でもあるのか?」

では、それ、つまりデザイン&アートのリテラシーの差が何か問題があるのか? という疑問は、そのまんま「経営、経済を発展させるのに、デザインやアートは必要なのか?」という問いに言い換えることができるのではないでしょうか。これに対するわたしの答えは、これです。

わからない

わたしはデザインやアートが好きですし、その重要視を説いて回ってきていますし、これからもそれを続けていきます。が、中川政七商店の会長と交わした会話をきっかけに「デザインよりずっと大切なものがある」ことについて徐々に考えを巡らすようになりました。商品やサービス、経営、市場のほうがデザインとかブランディングよりずっと重要です。見た目をそれほど重視はしていなかった(今ではし始めています)中国の経済や経営はアメリカ合衆国に肩をならべんとするほど発展してきました。一方ヨーロッパの経済は中国には遅れをとっています。だからわからないんです。

経営や生き残りに必要な知識や技術の一つかも

わからないのですが、そもそも成功の方法というものは明確ではなく、運によるものです(行動経済学経由でそう考えています)。であれば、経営、市場だって、がっちり頼れる知識というわけでもないが、一方で軽視もできないものです。この中にアートやデザインが含まれても良いではないでしょうか。

欧米との間にあるデザインの格差をとりあえず埋めてみる

ということで、わたしはやっぱり欧米と日本のあいだにあるデザインやアートのリテラシーの格差を埋めて行きたく思います。日本の経営者たちが、サービスやプロダクトの書体や見た目をもっと重視するようになったら、すごくおもしろい発展や生き残り方をする気がします。ということで、これからもデザインやアート、建築の話をしていきたいと思っています。


参照

※1



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