見出し画像

《週末アート》 ポール・セザンヌって誰?

週末アート》マガジン

いつもはデザインについて書いていますが、週末はアートの話。毎日午前7時に更新しています。

ポール・セザンヌ

国:フランス(エクス=アン=プロヴァンス)
生没:1839–1906(67歳)

ポール・セザンヌ

ポール・セザンヌ(Paul Cézanne)は、フランスの画家、ポスト印象派の画家。19世紀の芸術活動の概念から20世紀の新しい、根本的に異なる芸術世界への移行の礎を作った画家です。セザンヌは、19世紀末の印象派と20世紀初頭の新しい芸術の探求であるキュビスムの架け橋となったと言われています。当初はクロード・モネやピエール=オーギュスト・ルノワールらとともに印象派のグループの一員として活動していましたが、1880年代からグループを離れ、伝統的な絵画の約束事にとらわれない独自の絵画様式を探求しはじめました。ポスト印象派の画家として紹介されることが多く、キュビスムをはじめとする20世紀の美術に多大な影響を与えたことから、しばしば「近代絵画の父」と呼ばれることがあります。

ポスト印象派

ポスト印象派(Post-Impressionism )は、最後の印象派展からフォーヴィスムの誕生まで、おおよそ1886年から1905年の間に展開した、主にフランスの美術運動です。印象派が光と色の自然主義的な描写を重視したことに対する反動として生まれた。抽象性や象徴性を重視するため、ナビ派、新印象派、象徴派、七宝焼、ポンアベン派、シンセティズム、そして後期印象派の作品などが含まれます。主な画家はポール・セザンヌ(ポスト印象派の父として知られる)、ポール・ゴーギャン、フィンセント・ファン・ゴッホ、ジョルジュ・スーラなど。

セザンヌの生涯

1839年1月19日、ポール・セザンヌは、南フランスのエクス=アン=プロヴァンスに生まれました。

父のルイ=オーギュスト・セザンヌ(1798年-1886年)は、最初は帽子の行商人でしたが、商才があり、地元の銀行を買収して銀行経営者となった成功者でした。母アンヌ=エリザベート・オーベール(1814年-1897年)は、エクスの椅子職人の娘で、もともとルイ=オーギュストの使用人でした。セザンヌの出生時には2人は内縁関係にあり、1841年に妹マリーが生まれた後、1844年に入籍しました。1854年、妹ローズが生まれる。

1852年(13歳の時)、ブルボン中等学校に入り、そこで下級生だったフランスの小説家、エミール・ゾラと友達になる。

エドゥアール・マネ《エミール・ゾラの肖像》 1868年

パリ生まれで親を亡くしていたゾラは、エクスではよそ者で、級友からいじめられていました。セザンヌは、村八分を破ってゾラに話しかけたことで級友たちから袋叩きに遭い、その翌日、ゾラがリンゴの籠を贈ってきたというエピソードを、後に回想して語っています(※2)。もう1人の後に天文学者になるバティスタン・バイユ(Baptistin Baille)も併せた3人は、親友として絆を深めました。彼らは、散歩、水泳を楽しみ、ホメロス、ウェルギリウスの詩、ヴィクトル・ユーゴー、アルフレッド・ド・ミュッセへの情熱を共有しました。セザンヌは、1857年(18歳)にエクスの市立素描学校に通い始め、ジョゼフ・ジベールに素描を習います。1858年11月(19歳)にバカロレアに合格すると、1861年(22歳)まで、父の希望に従い、エクス大学の法学部に通い、同時に素描の勉強も続けていました。そのうち、徐々に、画家になりたいという思いを強くします。セザンヌは、父が1859年に購入した別荘ジャス・ド・ブッファンの1階の壁画に、四季図と父の肖像画を描きました。

父の別荘ジャス・ド・ブッファンに描いた春の壁画(1860年頃)(他の季節もある)。現在プティ・パレ美術館。

1858年2月(19歳)、ゾラがパリの母親のもとに発ち、残されたセザンヌは、ゾラとの文通を始め、詩や恋愛について語り合いました。ゾラは、絵の道に進むかどうか迷うセザンヌに、早くパリに出てきて絵の勉強をするようにと繰り返し勧めました。ゾラからセザンヌ宛ての手紙には「勇気を持て。まだ君は何もしていないのだ。僕らには理想がある。だから勇敢に歩いていこう。」、「僕が君の立場なら、アトリエと法廷の間を行ったり来たりすることはしない。弁護士になってもいいし、絵描きになってもいいが、絵具で汚れた法服を着た、骨無し人間にだけはなるな。」とありました。

セザンヌは、ゾラの勧めもあって、大学を中退し、絵の勉強をするために1861年4月(22歳)にパリに出ました。ルーヴル美術館でベラスケスカラヴァッジオの絵に感銘を受けます。官立の美術学校(エコール・デ・ボザール)への入学が断られ、画塾アカデミー・シュイスに通います。ここで、カミーユ・ピサロアルマン・ギヨマンと出会う。。朝はアカデミー・シュイスに通い、午後はルーヴル美術館か、エクス出身の画家仲間ジョセフ・ヴィルヴィエイユのアトリエでデッサンをしていました。セザンヌは、アカデミー・シュイスで、田舎者らしい粗野な振る舞いや、仕事への集中ぶりで、周囲の笑いものになっており、ピサロによれば、「美術学校から来た無能どもが、こぞってセザンヌの裸体素描をこけにしていた」そうです。同年9月には、セザンヌは、成功の夢が遠いのを感じ、ゾラの引き留めにもかかわらず、エクスに帰ります。エクスでは、父の銀行で働きながら、美術学校に通いました。銀行勤めはうまく行かず、翌1862年秋(23年)、再びパリを訪れ、アカデミー・シュイスで絵を勉強を再開します。この時、クロード・モネピエール=オーギュスト・ルノワールと出会います。この時期にロマン主義のウジェーヌ・ドラクロワ、写実主義のギュスターヴ・クールベ、後に印象派の父と呼ばれるエドゥアール・マネらから影響を受けました。セザンヌのこの時期(1860年代)の作品は、ロマン主義的な暗い色調のものが多い。

1863年(24歳)、ナポレオン3世が開いた落選展に、マネが『草上の昼食』を出品してスキャンダルを巻き起こしました。

エドゥアール・マネ 『草の上の昼食会』

1865年には、サロン・ド・パリに応募しますが、落選。ゾラは、同年12月、セザンヌに捧げる小説『クロードの告白』を出版し、当局の検閲に遭います。1866年(27歳)のサロンには、友人アントニー・ヴァラブレーグの肖像画を提出するもまた落選。1866年5月から8月まで、セーヌ川沿いの小村ベンヌクールで制作活動を行います。ここを訪れたゾラは、

「セザンヌは仕事をしている。彼はその性格の赴くままに、ますます独創的な道を突き進んでいる。彼には大いに希望が持てるよ。とはいっても、彼は向こう10年は落選するだろうとも僕らは踏んでいるんだ。今、彼はいくつかの大作を、4メートルから5メートルはある画布の作品をやろうと目論んでいる。」

と友人に報告しています。美術批評家としての地位を確立しつつあったゾラは、マネを囲む革新的画家がたむろするカフェ・ゲルボワの常連となり、セザンヌもこれに加わっていました。

1867年(28歳)のサロンにも落選。シスレー、バジール、ピサロ、ルノワールといった仲間たちも軒並み同様の目に遭っています。1868年のサロンでは、審査員ドービニーの尽力により、マネ、ピサロ、ドガ、モネ、ルノワール、シスレー、ベルト・モリゾといった仲間たちが入選しますが、セザンヌだけは再び落選になりました。1869年(30歳)、後に妻となるオルタンス・フィケ(当時18歳)と知り合い、後に同棲しはじめます。父からの月200フランの仕送りで2人の生活を支えなければならず、経済的には苦しくなる。1870年のサロンには、画家仲間アシル・アンプレールを描いた肖像画を応募し、またも落選。この年の7月19日に普仏戦争(プロイセンとフランスの戦争)が勃発したが、母がエクスから約30キロ離れ地中海に面した村エスタックに用意してくれた家にフィケとともに移り、兵役を逃れました。

『「レヴェヌマン」紙を読む画家の父』(1866年)


『アシル・アンプレールの肖像』(1868)


『草上の昼食』(1870-71年)

1872年夏(33歳)にセザンヌはエスタックからパリに戻ってきます。フィケと1月に生まれたばかりの息子ポールを連れてパリ北西のポントワーズに移り、ピサロとイーゼルを並べて制作しました。そのすぐ後、ピサロとともに近くのオーヴェル=シュル=オワーズに移り住みます。1873年(34歳)にパリ・モンマルトルに店を開いた絵具商タンギー爺さんことジュリアン・タンギーも、ピサロの紹介で知り合ったセザンヌの作品を熱愛しました。セザンヌは、この時期にピサロから筆触分割(ひっしょくぶんかつ:普通、色をつくる際、何色かの絵の具を混ぜてイメージに合う色になるまで混色を行うが、筆触分割では、色を混ぜ合わせることはせず、一つ一つの筆触が隣り合うように配置する)などの印象主義の技法を習得し、セザンヌの作品は明るい色調のものが多くなりました。セザンヌは、印象派からの影響について、後年次のように語っています。

私だって、何を隠そう、印象主義者だった。ピサロは私に対してものすごい影響を与えた。しかし私は印象主義を、美術館の芸術のように堅固な、長続きするものにしたかったのだ。

※2

1874年(35歳)、モネ、ドガらが開いたグループ展に『首吊りの家』、『モデルヌ・オランピア』など3作品を出品します。

『オーヴェルの首吊りの家』1872-73年
『モデルヌ・オランピア』(第2作)1873年頃

『モデルヌ・オランピア』は、マネの『オランピア』に対抗して、より明るい色調と速いタッチで近代の絵画の姿を示そうとした作品でした。この展覧会は、後に第1回印象派展と呼ばれることになりますが、モネの『印象・日の出』を筆頭に、世間から酷評されました。

クロード・モネ『印象・日の出』1872年

セザンヌの『モデルヌ・オランピア』も、新聞紙上で「腰を折った女を覆った最後の布を黒人女が剥ぎとって、その醜い裸身を肌の茶色いまぬけ男の視線にさらしている」と書かれるなど、厳しい酷評・皮肉が集中しました。他方、ゾラは、マルセイユの新聞「セマフォール・ド・マルセイユ」に、無署名記事で、次のように擁護しています。

その展覧会で心打たれた作品は多いが、中でも、ポール・セザンヌ氏の非常に注目すべき一風景画をここに特筆しておきたい。……その作はある偉大な独創性を証明していた。ポール・セザンヌ氏は長年苦闘を続けているが、真に大画家の気質を示している。

『首吊りの家』は、アルマン・ドリア伯爵に300フランの高値で買い上げられました。セザンヌは、この年の秋に母に書いた手紙でこのように書いています。

「私が完成を目指すのは、より真実に、より深い知に達する喜びのためでなければなりません。世に認められる日は必ず来るし、下らないうわべにしか感動しない人々より、ずっと熱心で理解力のある賛美者を獲得するようになると本当に信じてください。」

絵画収集家ヴィクトール・ショケの励ましもあり、1877年(38歳)の第3回印象派展に、油彩13点、水彩3点の合計16点を出品しました。ここには、既に、肖像画、風景画、静物、動物、水浴図、物語的構成図という、セザンヌが扱う主題が全て含まれていました。その中に含まれていたショケの肖像は再び厳しい批評にさらされましたが、一方で、「『水浴図』を見て笑う人たちは、私に言わせればパルテノンを批判する未開人のようだ」と述べたジョルジュ・リヴィエールのほか、ルイ・エドモン・デュランティ、テオドール・デュレのように、セザンヌの作品を賞賛する批評家も現れました。ゾラも、「セマフォール・ド・マルセイユ」紙に「ポール・セザンヌ氏は確かに、このグループ(印象派)で最高の偉大な色彩画家である」との賛辞を書いています。

『肘掛け椅子に座るヴィクトール・ショケ』1877年
『女性水浴図』1875-77年

セザンヌは、1878年(39歳)頃から、時間とともに移ろう光ばかりを追いかけ、対象物の確固とした存在感がなおざりにされがちな印象派の手法に不満を感じ始めました。そして、セザンヌは、モネ、ルノワール、ピサロとの友情は保ちながらも、第4回印象派展以降には参加しなくなりました。1879年4月(40歳)、ピサロに対し、こう書き送っています(※2)。

「私のサロン応募のことで論争が起こっている折から、私は印象派展覧会に参加しない方がよいのではないかと考えます。また他方では、作品搬入の面倒さから来る苦労を避けたくもありますし。それにここ数日のうちにパリを発つのです。」

印象派グループの中でも、モネやルノワールとドガの対立が鋭くなり、ドガが出品する第4回(1879年)、第5回(1880年)印象派展を、モネやルノワールがボイコットするという事態になっていました。セザンヌは、こうしてサロン応募を優先しましたが、この年のサロンにも落選してしまいっています。セザンヌは、同時期から、制作場所をパリから故郷のエクスに戻しました。第3回印象派展の後、1895年(55歳)に最初の個展を開くまで、パリの画壇からは知られることなく制作を続けました。1878年(39歳)から1879年(40歳)にかけて、エクスとエスタックに滞在することが多くなります。この頃、妻子の存在を父に感付かれたことで、父子の関係は悪化し、1878年4月から8月頃、毎月の送金を半分に減らされ、ゾラに月60フランの援助を頼んでいます。画材をタンギーの店で買い、代金代わりに絵を渡すことも多く、ポール・ゴーギャン、フィンセント・ファン・ゴッホはこの店でセザンヌを研究していました。また、ショケ、ピサロ、ガシェなどもタンギーの店でセザンヌの作品を買っていました。ゴーギャンは、ピサロに、以下のような手紙を送っています。

「セザンヌ氏は万人に認められる作品を描くための正確な定式を発見したでしょうか。……どうか彼にホメオパシーの神秘的な薬を与えて、眠っている間にそれをしゃべらせ、できるだけ早く私たちに報告しにパリまで来てください。」

また、ゴッホは、後に、アルルに移った時、このように書いています。

「前に見たセザンヌの作品が、否応なく心に蘇ってくる。プロヴァンスの荒々しい面を力強く示しているからだ。」

セザンヌは、1880年代前半には、10月から2月頃までは南仏で過ごし、エクスの父の家とマルセイユの妻子のいる家とエスタックの自分の家を行き来し、サロンのシーズンが始まる3月にはパリに出て、パリのアパルトマンを借りたり、ムランやポントワーズといった近郊の町に下宿したりする、という生活を繰り返していました。

パリを訪れた時は、ゾラがセーヌ川沿いのメダンに買った別荘に招待されることも度々ありました。

小説『居酒屋』(1877年)で成功したゾラがメダンに買った別荘
Spedona - Cliché personnel, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3426840による

1882年(43歳)、セザンヌは『L・A氏の肖像』という作品で初めてサロンに入選します。この時、彼は、サロンの審査員となっていた友人アントワーヌ・ギュメの弟子という形にしてもらい、審査員が弟子の1人を入選させることができるという特権を使って入選させてもらったようです。

1886年(47歳)、ゾラが小説『作品』を発表。ゾラは、この小説の中でセザンヌとマネをモデルにしたと見られる画家クロード・ランティエの主人公の芸術的失敗を描いています。同年4月、ゾラから献本されたこの本をエクスで受け取ったセザンヌは、ゾラに、手紙にこう書いています。

「君の送ってくれた『作品』を受け取ったところだ。この思い出のしるしをルーゴン・マッカールの著者に感謝し、昔の年月のことを思いながら握手を送ることを許していただきたい。」

1886年4月28日、17年間同棲していたオルタンス・フィケと結婚。同年10月、父が88歳で死去。父から相続した遺産は40万フランであり、経済的には不安がなくなりました。サント・ヴィクトワール山などをモチーフに絵画制作を続けますが、絵はなかなか理解されませんでした。

『サント・ヴィクトワール山』1887年頃

1889年にパリ万国博覧会で旧作『首吊りの家』が目立たない場所に展示されたほか、1890年(51歳)、ブリュッセルの20人展に招待されて3点の油彩画を送りましたが、余り反響はありませんでした。しかし、前衛的な若い画家や批評家の間では、セザンヌに対する評価が高まりつつありました。ポール・ゴーギャン、アルベール・オーリエ、エミール・ベルナール、モーリス・ドニ、ポール・セリュジエ、ギュスターヴ・ジェフロワ、ジョルジュ・ルコント、シャルル・モリスなど。ルコントは、1892年の著書『印象主義者の芸術』の中で、「セザンヌは、最も平凡な対象を描く時でも常にそれを高貴なものにする。」、「限りなく柔らかな色調と、豊かな広がりをうまく抑制できる極めて単純な色彩の均一性にもかかわらず、彼の絵画には力強さがみなぎっている。」と賞賛していました。ギュスターヴ・カイユボットが、1894年に亡くなった時、ルーヴル美術館に入れられることを条件として、セザンヌを含む印象派の絵画コレクションを政府に遺贈したところ、アカデミーの画家やジャーナリズムから批判を浴びて大問題となり、政府が一部のみの遺贈を受け入れることで決着したが、このこともセザンヌの知名度を増すこととなりました。1890年(51歳)頃からは、年齢と糖尿病のため、戸外制作が困難になり、人物画に重点を移すようになりました。

1895年11月(56歳)、パリの画商アンブロワーズ・ヴォラールが、ラフィット街の画廊で、セザンヌの初個展を開きました。ヴォラールにセザンヌの個展を開くことを勧めたのはピサロでした。ヴォラールは、1894年に行われたタンギー爺さんの遺品売立てでセザンヌ作品が6点出品されたうち、4点を入手していました。さらに、ヴォラールは、パリの街でセザンヌの家を苦労して探り当てて息子に会い、説得を依頼しました。すると、南仏にいた本人から、1868年頃から1895年までの集大成といえる約150点の油彩画が送られてきて、個展の開催に漕ぎ着けました。しかし、批評家たちの評価は芳しくありませんでした。一方、個展を見たピサロは、息子ジョルジュへの手紙で、「実に見事だ。静物画と大変美しい風景画、何とも奇妙な水浴者たちがとても落ち着いて描かれている。」、「蒐集家たちは仰天している。彼らは何も分かっていないが、セザンヌは、驚くべき微妙さ、真実、古典主義を持った第一級の画家だ。」と書いています。

1898年(59歳)には、ヴォラールが第2回個展を企画し、1899年(60歳)には、セザンヌは第15回アンデパンダン展に出展しました。セザンヌは、この両年には一時パリで過ごしていましたが、1900年以降はエクスでの制作に専念するようになりました。しかし、エクスでは周囲に理解されず、ゾラがドレフュス事件(1894年にフランスで起きた、当時フランス陸軍参謀本部の大尉であったユダヤ人のアルフレド・ドレフュスがスパイ容疑で逮捕された冤罪事件)で『私は弾劾する』(1898年)を発表したときなどは、その友人としてセザンヌを中傷する記事が地元の新聞に掲載されたこともあったほどです。

1900年にパリで開かれた万国博覧会の企画展「フランス美術100年展」に他の印象派の画家たちとともに出品し、これ以降セザンヌは様々な展覧会に積極的に作品を出品するようになりました。1904年(65歳)から1906年(66歳)までは、まだ創設されて間もなかったサロン・ドートンヌにも3年連続で出品しました。パリのベルネーム=ジューヌ画廊も、セザンヌの作品を取り扱うようになりました。

『リンゴとオレンジのある静物』1895-1900年。オルセー美術館
ポール・セザンヌ - The Yorck Project (2002年) 10.000 Meisterwerke der Malerei (DVD-ROM), distributed by DIRECTMEDIA Publishing GmbH. ISBN: 3936122202., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=149149による
『アヌシー湖』1896年。コートールド・ギャラリー
ポール・セザンヌ - The Yorck Project (2002年) 10.000 Meisterwerke der Malerei (DVD-ROM), distributed by DIRECTMEDIA Publishing GmbH. ISBN: 3936122202., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=149118による
セザンヌ『果物入れ、グラス、りんご』1879-82年
モーリス・ドニ『セザンヌ礼賛』1900年

ナビ派(19世紀末のパリで活動した、前衛的な芸術家の集団。「ナビ」はヘブライ語で預言者を意味します)の画家モーリス・ドニは、1900年、画商ヴォラールの画廊を舞台として、セザンヌの静物画の周囲に、ドニ自身を含むナビ派の仲間、ヴォラール、批評家アンドレ・メレリオが、巨匠オディロン・ルドンと向い合って立っている作品『セザンヌ礼賛』を制作し、これを1901年の国民美術協会サロンに出品しました。セザンヌは、一般社会からはまだ顧みられていませんでしたが、若い画家たちからは強い敬愛を受けていたことを示しています。このセザンヌの静物画は、ゴーギャンが愛蔵し、その肖像画の中に画中画として描き入れた絵でもありました。

ゴーギャン『マリー・デリアンの肖像』1890年
背後にセザンヌの『果物入れ、グラス、りんご』が見える

1902年(63歳)、エクス郊外に向かうローヴ街道沿いにアトリエを新築し、多くの静物画、風景画、肖像画を描きました。特に、大水浴図の制作に力を入れました。

『大水浴図』の前に座るセザンヌ(エミール・ベルナール撮影、1904年3月。当時65歳)。

晩年には、セザンヌを慕うエミール・ベルナールシャルル・カモワンといった若い芸術家たちと親交を持ちました。ベルナールは、1904年にエクスのセザンヌのもとに1か月ほど滞在し、後に『回想のセザンヌ』という著書でセザンヌの言葉を紹介しています。ベルナールによれば、セザンヌは、朝6時から10時半まで郊外のアトリエで制作し、いったんエクスの自宅に戻って昼食をとり、すぐに風景写生に出かけ、夕方5時に帰ってくるという日課を繰り返していたといいます。また、日曜日には教会のミサに熱心に参加していたそうです。セザンヌは、同年4月15日付けのベルナール宛の書簡で、次のような芸術論を語っています。

ここであなたにお話したことをもう一度繰り返させてください。つまり自然を円筒、球、円錐によって扱い、全てを遠近法の中に入れ、物やプラン(平面)の各側面が一つの中心点に向かって集中するようにすることです。水平線に平行な線は広がり、すなわち自然の一断面を与えます。もしお望みならば、全知全能にして永遠の父なる神が私たちの眼前に繰り広げる光景の一断面といってもいいでしょう。この水平線に対して垂直の線は深さを与えます。ところで私たち人間にとって、自然は平面においてよりも深さにおいて存在します。そのために、赤と黄で示される光の振動の中に、空気を感じさせるのに十分なだけの青系統の色彩を入れねばなりません。

1906年9月21日(67歳)のベルナール宛書簡では、「私は年をとった上に衰弱している。絵を描きながら死にたいと願っている。」と書いています。その年の10月15日、野外で制作中に大雨に打たれて体調を悪化させ、肺充血を併発し、23日朝7時頃、自宅で死去しました。翌日、エクスのサン・ソヴール大聖堂で葬儀が行われました。墓石には、死亡日が10月22日と刻まれていますが、市役所の死亡届には23日と記録されています。


『大水浴図』1898 - 1905年。フィラデルフィア美術館。

まとめ

セザンヌは、晩年になってようやく一般的に評価されはじめますが、評価されずとも描き続けた彼の情熱は、おもうに彼が母に宛てた手紙のなかにあるように「私が完成を目指すのは、より真実に、より深い知に達する喜びのため」だからなのではなでしょうか。そして「世に認められる日は必ず来るし、下らないうわべにしか感動しない人々より、ずっと熱心で理解力のある賛美者を獲得するようになると本当に信じてください」と自分の描く絵を信じ切っているように思えます。この力をわたしは神々しいが、ちゃんと実在した人物として、希望の史実としてみています。

関連記事


参照

※1

※2

*3


よろしければサポートをお願いします。サポート頂いた金額は、書籍購入や研究に利用させていただきます。