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嫌いと尊敬

中学生の時の部活の先生が死んだ。62歳で大動脈乖離とのことをグループLINEで知った。

自信を持って言えてしまうほど「全国出場」を果たす強豪校だったと思う。だから朝から夜まで、休みは無く、遠征も多かったし、先生の気合に引くことも度々あった。

まだ13、14、15の私にとって、先生は両親よりも1日を長く過ごす一番身近な大人だった。それなのに、タバコ臭いおじさんの匂い・二日酔いのお酒の匂い・褒めずにゲキばかりを唾と一緒に飛ばし・指導に来てくれる先生たちに頭を下げヘコヘコしているその姿が嫌いだった。格好悪かった。

部長だったこともあり、私に対しては誰よりも強く、「放課後の部活までに考えてこい」とレポート提出を毎日のように求めた。私は他の授業中や休み時間をも部活に割いた、屈辱的苦痛を覚えている。

勝手にいつまでも先生はこのままなんだろうな、とどこか冷静な気持ちでみていた。いつまでも変わらず部活に情熱を注いで、生徒たちには引かれて、それでもいいから全国で賞をもらう。それをこれから先も変わらずこなし、しぶとく生き続けていくのだと本気で思っていた。

でも先生が死んだ。あの時の大人も人間だった。だから死んだ。

文句を言いつつ部活を辞めなかったのは、部活が好きだったからじゃない。仲間がいたからでもあるが、どこか先生を尊敬していたからなんだと思う。

あそこまで真剣に、学生の部活動に向き合い、自らアポをとり指導者を雇い、言葉は強かったが的確な課題を与え向き合わせ、嫌われてもいいから目標を叶えたいがためのその姿勢、そして伝染するかのように目標を私たちに持たせてしまうところ。

嫌悪感とでも、それ以上の憧れを抱いていた。この人は凄いと。

熱量がある人は鬱陶しがられる。でもやはり尊敬される。

そんな先生だった。

ありがとう先生、「嫌い」とか「ウザい」とかたくさん言ってすみませんでした。今はほんの少しだけ、嫌いじゃないです。コロナでお線香もあげに伺えず、ごめんなさい。ゆっくりお休みください。たくさんの夢を与えてくれて、ありがとうございました。

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