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ワーニャ伯父さんに呪いをかけたのは誰?

ここ3,4日、季節の変わり目で体調を崩したのか毎日noteを投稿するというチャレンジが途切れてしまった。

書けないものは仕方ないとノートパソコンを閉じ、とりあえず目の前にある本を片っ端から読み漁っていたのだが、その中の1冊が『ワーニャ伯父さん/チェーホフ』である。

2021年に公開された映画『ドライブ・マイ・カー』の劇中劇であり、物語は登場人物3人の喪失と悲しみに重なっていく。


正直体調の悪い時に読むような本ではなかったのだが、図書館の返却期限が迫っていたから急いで読んだというのはここだけの話である。


以前『ドライブ・マイ・カー』を鑑賞した際、ラストシーンの劇中劇でワーニャ伯父さんの姪のソーニャがワーニャ伯父さんに言葉をかけるシーンで不覚にも号泣してしまった。

『ワーニャ伯父さん』の原作は知らなかったが、ワーニャ伯父さんの行き場のない悲しみとソーニャの美しい手話が語る力強い言葉があまりに印象的に刺さった。

これは是非『ワーニャ伯父さん』を読んでみたい。

そして今回手に取り返却期限が頭にチラつきながらあっという間に読了した。


思うところは色々とあったのだが、その中でもワーニャ伯父さんが年齢や今までの歳月に囚われ苦しんでいるようで私にはそこが気になった。

丁度その時私が「25歳にもなって、何をしてきたんだろう。これからどう生きていけばいいんだろう」と悩んでいたのもあるかもしれない。


作中ワーニャ伯父さんは
「25年間つまらない男を尊敬し仕え無駄にしてしまった」
「10年前プロポーズをしていたならエレーナは妻だったかもしれない」
「47歳になってしまった。60歳まで生きるとしてまだ13年ある。この13年をどう生きればいいんだ?」
と悲観する。

まるで年齢や歳月の呪いをかけられているようだ。

ずっと彼の頭から無駄にした時間が悔しく無念で離れない。
無駄にした時間が未来さえ見えなくさせる。
その悔しさや無念は”つまらない男”に銃口を向け、仕舞いには後悔の念で自分を傷つける。

一方ワーニャ伯父さんだけでなく”つまらない男”であるセレブリャコフも
自身の老いを悲観し、迫る死期に怯える。
「どうせ自分は若い妻の青春を台無しにする老いぼれだ、皆嫌がっているに違いない」と卑屈になり妻に当たり散らす。


皆、ずっと何かに怯えたり焦っている。


私はロシア文学に明るくはないし、当時の情勢も価値観も知らない。
だから彼らの絶望感は想像しきれないこともあるだろう。
「60歳まで生きるとして」と言っているくらいだから今よりもずっと平均寿命は短く、時間の重さも現代とは比較できない。

しかし年齢や過ごした歳月という見えない首輪に縛られているような不自由さは現代の人間にも通じるんじゃないかと思ったのだ。

それもかなり一般的に。

少なくとも私は縛られている。



ではワーニャ伯父さんは誰に年齢という呪いをかけられ縛られていたのだろう。

ワーニャ伯父さんの言う通り”つまらない男”のせいだろうか。

仕えた主人を”つまらない男”と気付かなければ呪いはかけられなかっただろうか。

呪われていることにも気付かなかっただろうか。

気付いてしまったのは”つまらない男”の妻エレーナを愛してしまったからだろうか。

ワーニャ伯父さん自身が自分で自分に呪いをかけてしまったんじゃないだろうか。

もしそうなら何故。

なんで私たちは自分で年齢という呪いをかけてしまうんだろう。



ワーニャ伯父さんと私自身を重ね、何者かにかけられた呪いに無意味に苦しめられていることに気が付いたけれど。

まるで自ら不幸に向かっているようで気付いた時恐ろしくなった。

でも「長い夜を生きていかなくちゃいけない」から、呪いは解かなくちゃ。


私はワーニャ伯父さんになりたくない。




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