短編小説|英雄なるウィート伯爵の死
プロローグ
その日、⦅英雄⦆と呼ばれたひとりの男が死んだ。
男の名は、パーマル・アン・ウィート伯爵。
王家に忠誠を誓う、由緒ある伯爵家ウィートの名に恥じぬ人物だった。
貴族としての誇りと矜持を兼ね備え、高潔で知性的、弱きを助ける善意にあふれ、自己犠牲も厭わない彼(か)の人のことを、人々は尊敬を込めて、いつしか⦅英雄ウィート⦆と呼ぶようになった。
そんなウィート伯爵の突然の訃報は、高級紙(タイムズ)、さらには大衆紙(タブロイド)でも大きく報じられ、またたく間に王都全土に知らされた。
『数多の功績を残した英雄ウィートこと、ウィート伯爵は、わが英国でもっとも格式高きホテル・ザ・ロワイヤルに仕掛けられた爆弾から、逃げ遅れた幼い子どもを救うべく、危険を顧みずひとりホテル内へと入って行った。
幼い子どもはウィート伯爵の勇気ある行動により助け出されたが、ウィート伯爵がホテルから出てくる前に爆発が起こり、火の手に飲まれたウィート伯爵は帰らぬ人となってしまった。
偉大なるかの英雄の突然の訃報に英国中が悲しみに暮れている……』
英雄の死
「あの方が亡くなったなんて、本当に信じられんよ」
「ああ、まったく神様もひどいことをしなさる。あんな徳のある方がこんな最期を迎えるなんて」
王都にある年季の入った宿の前で、宿屋の亭主である髭面の男と近所で肉屋を営む小太りの男の中年ふたりが立ち話に興じている。
宿屋の亭主は、読み込みすぎてしわくちゃになった大衆紙を広げていた。
その紙面を埋め尽くしているのは、昨夜起こったウィート伯爵の事故についての記事だった。
「まさかあのホテル・ザ・ロワイヤルに爆弾が仕掛けられるなんてな」
肉屋の男が眉間にしわを寄せ、首を振る。
「ああ、恐ろしいこった」
亭主も同意するようにうなずく。
「伯爵はちょうどホテルに居合わせたんだって?」
「そうらしいな。ええっと──」
亭主は、大衆紙に目を落とすと読みはじめた。
「ウィート伯爵は知人と会うためにホテルを訪れていた。そこへまさかの爆破予告があったのだ!
ホテルにいた客や宿泊客などは外へと避難したが、幼い子どもがいないことに気づいた母親がいた!
彼女は泣き叫びながら、子どもを探すためにホテルへ引き返そうとしたが、それをウィート伯爵が引き留めたのだ。そして母親の代わりに自らホテルの中へと入っていった。
しばらくして、子どもはひとりで外へ出てきた──」
「子どもひとりで? 伯爵はどうしたんだ?」
肉屋の男が口を挟む。
「そこが不思議なんだが」
亭主はそう言いながら続きを読む。
「出てきた子どもに確認したところ、ウィート伯爵が自分をここまで連れてきてくれたと泣きながら話した。しかし出入り口のそばまで来たとき、なぜか伯爵はひとりで来た道を引き返して行ったのだ! なぜだ!?
そこで筆者は考える、伯爵はほかにも残された客人に気づき、救出のためにあえて戻ったのではなかろうか!
強い使命感をもっている伯爵のことだ、きっとそうに違いない──、だとさ」
「そんな! じゃあ子どもと一緒に外に出ていれば助かったんじゃないか!」
肉屋の男は沈痛な面持ちで声を荒げた。
「そうだろうな。その少しあとに爆発が起こったらしいからな」
と亭主はうなり、紙面を持つ手に力が入り、くしゃりと新たなしわが寄る。
そのとき、
「はい、郵便です」
そう言いながら、広げられた大衆紙の向こうからひょいっと顔をのぞかせたのは、若い男だった。郵便局員の青い制服に身を包み、愛想の良い笑みを浮かべて一通の封筒を差し出している。
「ああ、ご苦労さん」
亭主は両手で広げていた大衆紙を片手に持ち直し、封筒を受け取る。
「どこもかしこもウィート伯爵の話で持ちきりですね」
若い郵便屋は記事に目をやると、興味本位が混じる口調で言った。
亭主はため息を漏らしながら、
「そりゃあな、こんな悲劇が起きちまったもんだから」
「有名なお方だからな。みんな悲しんでら」肉屋の男がうなずく。
「ウィート伯爵と言えば、あのエルダー戦争で有名になった方ですよね」
郵便屋は思い出すように言った。若い彼は、ウィート伯爵についての知識が乏しいようだった。
亭主は嬉々として、
「そうさ。あの戦争で、わが国は劣勢に立たされていたが、ウィート伯爵が敵の猛将を討ち取ったことで形勢が逆転して、勝利を手にできた有名な話だ。それからだな、伯爵のお名前が俺達庶民にまで知れ渡ったのは」
自分のことのように誇らしげに語る。
続いて肉屋も、
「あとは、さる異国の姫君がわが国に来られた際、姫君を乗せた馬車が暴走し、あわや崖に転落するすんでのところ、居合わせたウィート伯爵が助けたっていう話もある」
「そうそう、そのときも大きな話題になってたな。ほかにも──」
亭主は大衆紙を再び両手で広げて、記事に目を落とす。爆発事故の詳細だけでなく、伯爵についても書かれているらしい。該当の箇所を見つけると、
「ああ、これだ。ええっと、古い歴史をもつウィート伯爵家は、代々教会や孤児院などにも多大な寄付をしており、現当主のウィート伯爵は慈善活動家としても広く知られている。
さらに伯爵は、領地手腕においても一目置かれる存在であった! 自身のウィート領の発展をつねに考え、現状を良しとせず、ときに大胆な改革を行い、得た利益は領民に渡していた。なんと民思いの領主であろうか!
ウィート伯爵の数々の功績は、英雄伝にまとめられ、近く書籍として発売されることが決まっている──、とあるな。俺達が知らない功績もまだまだあるんだろうよ。さすがは英雄ウィートだ」
ガハハハと大口を開けて亭主が笑い、肉屋の男も声を上げる。ひとしきり笑ったあとで、
「……それだけに、本当に惜しい方を亡くしたもんだ」
肉屋の男がため息とともに漏らす。
亭主はうなだれるように、地面に視線を落とした。
しんみりした空気が漂いはじめたとき、
「あんた! なに無駄話してるのさ! さっさと手伝っておくれよ!」
宿の戸口から顔をのぞかせたのは、宿屋の女将だった。目を吊り上げ、怒りを露わにしている。
「い、いま行く!」
ひえ! と悲鳴を小さく上げて、亭主は急いで宿の中へ入っていく。
肉屋の男も自分の妻を思い出したのか、
「じゃ、じゃあ、俺も店に戻るかな」
とそそくさとその場をあとにする。
ふたりの様子を見て、まだ結婚していない若い郵便屋は苦笑いを浮かべる。
しかし、すっと表情が消え、
「……でもそんな完璧な人間、いますかね」
思わずぽつりとこぼれた言葉に、彼ははっとあたりを見回す。
通りは、忙しなく行き交う人々で騒がしかった。
誰の耳にも届いていないことに、郵便屋はほっと胸をなで下ろす。
誰かに聞かれでもしたら、不敬罪で自分の首など簡単に飛ばされてしまう。
ウィート伯爵についての英雄伝は数多くあり、王都に住む人間は手放しに称賛するが、数年前によそから来た彼はその話を聞くたび、ざわりとした感触を覚えるのだった。
本当にそんな完璧な人間がいるんだろうか──。
郵便屋はふうと息を吐き、首を振る。
もう亡くなった方だ。そんな方を疑うなど死者への冒涜だろう。
気持ちを切り替えるように、次の配達先へと向かった。
集う者達
広大な敷地に建つ白亜の屋敷、早咲きのバラが見事に咲き誇る庭園の一角にある、大理石でできた四阿(ガゼボ)に、その人物達は集っていた。
しわひとつない真っ白のテーブルクロスがかけられたガーデンテーブルの円卓、その上には繊細なバラ模様が描かれたティーカップが三人分置かれている。カップからは淹れたての紅茶の上品なかおりが漂っている。
「さっそく昨夜のことが載っていますわ」
淑女らしく優雅に腰かける年若い女性が言った。若いながら、客人を出迎えた屋敷の者としてふさわしい品格を見せている。手袋越しの華奢な指先が高級紙(タイムズ)の記事をついと撫でる。
「ええ、大衆紙(タブロイド)でもこんなに大きく書かれています」
そう言って、自身が持参した大衆紙を広げてみせたのは、若い女性よりもいくつか年上の青年だった。
「本当にどこもかしこも、さすがは英雄だと賞賛しておりますわね……」
次いで口を開いたのは、喪服に身を包む夫人だった。黒いレースのハンカチを目頭にやり、つとあふれる涙を拭っている。
「恐れながら、そちらの紙面を拝見してもよろしいでしょうか」
高級紙に目をやりながら、青年が若い女性に尋ねる。自分の立場を理解している彼は、慇懃な態度を崩さない。
「ええ、もちろんです」
若い女性は、手のひらを見せ、青年を促す。
「失礼いたします」
そう言って、青年は高級紙に手を伸ばし、広げた紙面に目を落とす。さっと一読したあとで、読み上げはじめた。
「──ウィート伯爵は知人と会うためにホテルを訪れていた。同刻爆破予告があり、ホテルにいた客や宿泊客などは外へと避難したが、幼い子どもがいないことに気づいた母親がいた。彼女は子どもを探すためにホテルへ引き返そうとしたが、ウィート伯爵が引き留め、代わりに自身がホテルの中へと入っていった。
しばらくして、子どもはひとりで外へ出てきた。出てきた子どもに訊けば、ウィート伯爵が自分をここまで連れてきてくれたという。しかし出入り口のそばまで来たとき、なぜかウィート伯爵はひとりで来た道を引き返していった。
これは推測の域を出ないが、伯爵はほかにも残された客人に気づき、救出のために危険を承知で戻ったのではないだろうか。強い使命感をもっている伯爵であれば十分あり得ることだ──、とありますね」
若い女性は、喪服の夫人と青年、ふたりの表情を見やったあとで、
「ええ、世間的には英雄として華々しく散ったのです。ウィート伯爵も本望なはずですわ」
と小さくうなずく。
そしておもむろに、すっと姿勢を正すと、
「ご協力感謝いたします。マーベル夫人、ミスター・ヘイズ」
わずかに頭を垂れ、長いまつげに縁取られたまぶたを恭しく下げた。
集まった三人の中で、一番年下ながらも家格的には格上である若い女性がとった礼に、喪服姿のマーベル夫人と青年のミスター・ヘイズは、慌てて首を横に振った。
「いいえ、ハイディ様」マーベル夫人は涙をたたえて言った。「わたくしこそ、貴女に感謝を申し上げねばなりません。これで娘も少しは安らかに眠れますわ……」
それに同意するようにミスター・ヘイズも、
「ハイディ様、私からも。父の汚名を晴らせただけでなく、父の仇まで打てたことを心より感謝申し上げます」
胸に手を当て、深く頭を下げる。日頃から感情をあまり表に出さないヘイズですら、その目には込み上げるものが見てとれる。
ハイディと呼ばれた令嬢は、ふたりの顔を交互に見つめたあとで、胸の内をこらえるようにきゅっと唇を結ぶ。
「ええ、私の母もきっと……」
とまぶたを伏せた。
ここに集まった三人は、ウィート伯爵によって、愛する者を奪われた人間だった。
マーベル夫人は、娘を。
ミスター・ヘイズは、父を。
そしてハイディは、母を死に追いやられた──。
ウィート伯爵は、世間では誰もが尊敬する人格者で通っていた。
しかしその実態は、恐ろしいまでに自分の正義を振りかざす偽善者でしかなかった。
プライドが高く、虚言癖があり、自分の都合のいいように事実を曲解する。ときに達者な弁で他者を巻き込み、自分の正論で世間を欺く。
いくら真実の声を上げようとも、ウィート伯爵がそんなまさか……と世間は一笑して終わる。
それがハイディにとっては、悔しくて仕方なかった。
ハイディは侯爵家息女という貴族としての高い身分に生まれたが、ハイディの母はそうではなかった。弱小子爵家の出身で、家格が不釣り合いにもかかわらず反対を押し切った侯爵家の父が無理やり婚姻を結んだ。そのため姑は、母をひどく疎んだ。暴言を吐き、社交界や茶会などでは、嫁である母からいやがらせを受けていると涙を堪えながら吹聴し、母を貶めた。
そしてそれを助長させたのがウィート伯爵だった。
元々姑に恩があった伯爵は、姑の嘘を疑わず同情を示し、さも真実のように噂の種を蒔いた。中には母が不貞を働いているという根の歯もない中傷まであった。
第三者であり、人格者としても知られるウィート伯爵がさりげなく口した話を誰もが真実だと受け止め、噂はまたたく間に広がった。
やがて心を壊したハイディの母は、崖から身を投げた。
しかしそれらの事実は伏せられていたため、母は不幸な転落死だったとハイディはずっと信じていた。
それなのに──。
母の死の半年後、母の日記が見つかった。なにも知らなかったハイディは、それを読んで驚愕する。
急いで祖母へ真実を問い詰めたところ、祖母はハイディの手から母の日記を奪い取り、燃え盛る暖炉の中に投げ入れた。
そして必死の形相で
「そんな戯言を信じてはなりません! あの女は嘘つきなのです!」
と叫んだ。
その祖母の態度がすべてを物語っていた。
それからハイディは、何度も何度も祖母に詰め寄り、罪の意識があるなら真実を語って母の汚名を晴らすべきだと訴えた。
しかしそれは叶うことなく、祖母は流行り病であっけなくこの世を去る。
死に際でさえ、母への謝罪の言葉なかった。
そのあとのことだ。ハイディがウィート伯爵への復讐を固く決意したのは──。
そしていろいろと調べるうち、自分と同じようにウィート伯爵によって大切な人を奪われた事実があることを知った。
ハイディは密かに接触を試みることにし、まず近づいたのが、マーベル子爵夫人だった。
マーベル夫人が参加するお茶会の招待状を手に入れ、顔見知りになったのち、徐々に距離を縮めていった。
非業の死を遂げたマーベル夫人の娘は、誰もがため息を漏らすほどの美人だったそうだ。
しかしマーベル子爵家には先代が残した莫大な借金があり、そこに目をつけた傲慢な商人の男に言い寄られた。マーベル夫人の娘は何度も断っていた。マーベル夫人も嫌悪を表し、夫にも進言して拒否の姿勢を貫いていた。
そんなとき偶然、ウィート伯爵と商人が懇意になる機会があった。
商人は伯爵へ協力を仰ぎ、応じた伯爵は子爵家を訪れ、商人からの援助で子爵家を立て直すしか方法はなかろうと主張し、マーベル夫人の娘と商人との仲を取り持とうとする。
しかし話が進むわけもなかった。そのことに、伯爵は、うぶな娘が素直になれないだけだと解釈し、商人には「恥ずかしいらしい。もっと強引にいったほうがよかろう」と誤った後押しをした。
これ幸いと、商人は強気に出る。そしてある夜会でマーベル夫人の娘の純血を無理やり奪おうとしたが、娘が暴れたため、誤って殺してしまった。
ウィート伯爵は自分にかかる火の粉を恐れ、商人と口裏を合わせて、マーベル夫人の娘の死は事故だと偽り、事実をもみ消した。
「どうあがいても、誰も取り合ってくれませんでした」
マーベル夫人は目に涙を溜めて言った。
ハイディとマーベル夫人がはじめて胸のうちを語り合った日のことだ。
夫人の身を包む黒い喪服は、娘を守れなかった己への戒めだと聞いている。
「どれだけわたくしが真実を口にしようと、誰も彼も笑ってあしらうだけでした。こうしてお話を聞いてくださったばかりでなく、信じていただけるなんて……」
夫人は崩れ落ちるように嗚咽を漏らした。
それはまさにハイディの心情そのものだった。
ハイディは手はじめに、マーベル夫人の娘を手にかけた悪質な商人にそれ相応の報いを受け
させた。それとなく誹謗中傷の噂を広め、仕入れ先に手を回し、身動きが取れないようにして、自ら破産するように仕向けた。一介の商人を潰すのは造作もないことだった。
次にハイディは、ある男爵家の執事を務めるミスター・ヘイズに目を留める。
慎重に調査を重ね、確信を得た上で、声をかけた。
ヘイズは元々ウィート伯爵家の執事だった。そして彼の父は、先代当主からウィート伯爵家に仕える家令だった。
ある日、家令だったヘイズの父は、横領の罪で伯爵家を解雇されてしまう。
同時に息子であるヘイズも伯爵家を追い出され、親子は路頭に迷うことになった。
しかしヘイズの父は無罪だった。
不審な金の流れが見つかり、調査したところ、ウィート伯爵が自らの投資で失敗した多額の負債を隠していたことが判明。真意を追求したところ、罪をなすりつけられ、解雇されたのだった。
信頼していた伯爵家からの裏切りによって、真面目だったヘイズの父は自暴自棄になり、酒に溺れた。ついには体を壊し、無念の死を遂げる。
「ウィート伯爵家は代々、領地内の教会や孤児院に多くの寄付をしていました。しかしあの男は、先代当主が亡くなり、自分が当主の座に就いたのをいいことに、いつしかそのお金にまで手をつけ、毎年少しずつ寄付金を減らした分、自分が行う投資に回していたのです」
苦々しげにヘイズは拳を握りしめた。
数年前、ハイディの紹介により、マーベル夫人とミスター・ヘイズが対面を果たした日のことだ。
向かいに座るマーベル夫人は、青年の言葉にじっと耳を傾けている。
そのふたりを見守るように、ハイディは上品さを崩さず腰かけていた。
「気づいた家令の父がそれを丁重に指摘しましたが、『ああ、そのことか。じつは建物修繕などの大きな入り用がないから、少しくらい減らしてもいいと申し出があったのだ』とさらりと言って退けました。
不審に思った父が教会や孤児院に確認したところ、みな口々に、伯爵から『折からの不作で税収が減っている、いままでどおりの寄付額が難しくなってしまった。私が不甲斐ないばかりですまないがこらえてほしい』と鎮痛な面持ちで説明を受け、協力しなければと思っていたと言うのです」
「まあ、なんてことを……」
信仰深いマーベル夫人は、震える両手で口元を押さえた。
ヘイズは、その深い同情に視線で感謝を述べ、言葉を続ける。
「それは氷山の一角に過ぎませんでした。年を追うごとにあの男の金遣いは荒くなり、借金は膨れ上がる一方で、それをなんとかしようと父は水面下で進言を繰り返していました。
同時に、領地内への影響を最小限に押し留めるべく奔走していたところ、あの男は突然、父に罪をなすりつけて解雇に追いやりました。父は元々仕えていた先代へのご恩もあり、あの男に当主としての責務を自覚してほしいと願っていたんだと思います。
だがそんな父の思いすら、疎ましいとしか感じなかったのでしょうね……」
ヘイズは自嘲する笑みを浮かべたあと、ぐっと眉間のしわを深くした。
「でもそれ以上に許せないのは私自身です! 私は伯爵家を追い出されるまで、あの男の本当の姿に気づきもしなかった……!」
ヘイズは振り上げた拳で、自身の太ももをダンッと叩いた。
直後、ハッと意識を戻し、気まずげに、
「申し訳ありません、少々取り乱しました……」
と言い、居住まいを正した。
ハイディは、そっと息を吐き、
「……みなそうですわ」
感情を抑えるように言った。
時折、祖母を訪ねて来ていたウィート伯爵は、紳士でとても気さくな人物だった。ときに冗談を口にして、ハイディを笑わせることもあった。母にだって好意的に接していた。見る目がなかったと言われればそれまでだが、悔しいくらいに、ウィート伯爵の狡猾な仮面に気づく者はほとんどいなかった。
「ええ、ハイディ様の言うとおりですわ。わたくしも娘のことがなければ、噂で聞くウィート伯爵は、英雄の名に恥じない、なんと正義感にあふれた高潔な紳士だろうとずっと思っておりましたもの……」
マーベル夫人は、自分の愚かさを認める苦しげな笑みをこぼしたあと、唇をキュッと噛み締めた。
ハイディは、マーベル夫人の肩にそっと手を添えた。そのあたたかな感触に、マーベル夫人はふっと体の強張りを解く。
「あのエルダー戦争での栄光も偶然の手柄。異国の姫君を助けたのも自らの失態を隠すため……。誇り高き英雄がじつは虚栄心と保身の塊だと知る者は、おそらく私の父くらいしかいなかったのではないでしょうか」
ヘイズは嫌悪感をにじませ、さらに続けた。
「私ですら、じつの父の言葉にもかかわらず、酒に溺れた者の虚言だと取り合うことすらしませんでした。伯爵家を追い出されたあと、父が罪を犯すはずがないと思いながらも、あのウィート伯爵が父に罪をなすりつけることもない、なにかの間違いだとずっと信じていました。でもまっ先に疑うべきはあの男だったのです……!」
ギリッと拳を握りしめる。
ハイディは彼の気持ちが痛いほど理解できた。
ウィート伯爵家の家令だったヘイズの父は、ハイディも調べきれなかった事実を数多く知っていた。
伯爵が英雄ともてはやされるようになったエルダー戦争で、敵の猛将を討ち取った話の真相は、偶然流れ弾に当たった敵将が目の前で倒れた事実をウィート伯爵が自分の手柄にしただけだった。
異国の姫君の暴走した馬車は、本来ウィート伯爵が目の敵にしていた人物が乗る予定だった。馬に細工をし、亡き者にしようと企んでいたのだ。
しかしそこへわが国を訪れていた姫君が通りがかり、目の敵にしていた人物がこれから向かう領地に興味を抱いた姫君は、その馬車への同乗を望まれた。そして馬車が暴走──。異国の姫にもしものことがあれば、戦争に発展しかねない大惨事になる。焦った伯爵は、事実をもみ消すと同時に、必死で姫を助けた。その結果、英雄としての名が高まっただけの話だった。
次から次に出てくる事実に、ハイディは胸をかきむしりたくなるほどだった。
貴族としての誇りと矜持を持ちあわせていないばかりか、高潔さや慈悲のもかけらもない、クズな人間の本性がそこにはあった。
「声をかけていただき感謝申し上げます、ハイディ様」
ひとしきり話を終えたあとで、ヘイズはその場で膝をつき、胸に手を当てて言った。
「私は父の汚名を晴らしたい。そのためならどんなことでも厭いません」
その言葉に対し、
「ええ、私ももとよりそのつもりですわ」
ハイディは眼差しを鋭くしてうなずいた。
こうして三人は志をともにするようになった。
数年前のことだ。
それからウィート伯爵への復讐計画を緻密に立て、そして昨夜ついに叶った──。
死への階段
「それはたしかか?」
ふいに草むらから聞こえた声に、身なりの良い長身の男はぴたりと足を止める。
人目をはばかるように抑えた声色には、あきらかな興奮が混じっていた。
長身の男は一瞬迷ったあとで、気づかれないよう声のするほうへと足を向ける。
「ああ、間違いない。クラブラウンジの裏部屋にある予備のピアノの中だ」
もうひとりが答える。
どうやら草むらの中には、ふたりの男がいるらしい。
長身の男は、夜の暗闇の中、木の影に身をひそめ、顔の見えないふたりの会話に耳を澄ませる。
「取引きされる予定のアヘンが、予備のピアノの中に隠されているらしい」
「この騒ぎに乗じて盗み出せれば……」
「ああ、ひと儲けどころの話じゃない。しかもこの騒ぎじゃ誰の仕業かわかりゃしねえだろ」
「違げえねぇな」
くぐもった下卑た笑いが暗闇に響く。
長身の男は、そっと草むらをあとにすると、来た道を急いで戻りはじめる。
一服しようとホテル建物から離れた庭の一角に足を伸ばしたのだが、思わぬ話を聞いてしまった。
向こう側に見える豪奢なホテル・ザ・ロワイヤルでは、突然の爆破予告騒ぎで騒然としていた。
『ホテルに爆弾を仕掛けた。犠牲者を出したくなければ、ただちにホテルの外へ避難しろ』という脅迫状がホテルへと届いたのは、一時間ほど前のことだ。
万が一のことを考えたホテル側は、慌ててホテルにいる客や宿泊客をホテル建物の外にある広大な庭園へと避難させた。
夜にもかかわらず突然外へと出された客達は、不安げな表情でホテルを見上げている。
中にはホテル係員に声を荒げて詰め寄る寝巻き姿の人も見える。
長身の男も、ホテル客のひとりだった。
人と会う約束があり、ホテルを訪れていた際、爆破予告に巻き込まれた。
ホテルの外に出てきたあと、一服でもしようと思い、離れた庭の一角に足を伸ばしたところ、思わぬ話を聞いてしまったのだった。
焦る気持ちを抑えながら歩を進めていた長身の男は、ホテルの前まで戻ってくると、あたりをきょろきょろと見回す。
ホテルの前に立つ数人の警察官に目を留めると、その中のひとりのほうへと近づいていく。
「これはこれは、ウィート伯爵」
颯爽と歩いてくる人物に気づいた中年の警察官は、驚きながら、帽子のつばに手を当て敬礼して言った。
「やあ、とんでもないことになったね」
ウィート伯爵と呼ばれた長身の紳士は、ステッキを持つ手を上げる。顔馴染みの警察官だった。
「ええ、まったくとんでもない脅迫ですよ、ホテルに爆弾を仕掛けたなんて」
ウィート伯爵は痛ましげに眉根を下げたあと、
「ところで──」
と話を切り出しかけた直後、
「放してください! あの子が! あの子がまだ中に!!」
騒然とする中に、切迫した女性の甲高い声が響き渡った。
ウィート伯爵と警察官は、声のするほうへ反射的に顔を向ける。
暴れる女性を警察官ふたりが必死で押さえていた。
「なにかあったのかね?」
ウィート伯爵は、警察官に訊ねる。
「一緒に避難したはずの息子が見当たらないんだそうです。避難の途中に落としたおもちゃを拾いに戻ったかもしれないと……」
「なんてことだ」
伯爵は声を上げる。
「しかしいつ爆発するかわからないので、戻らないよう母親を引き留めているんです」
警察官が顔をしかめて言った。
ウィート伯爵は眉間の皺を深くして、大きく首を横に振った。
「きみ、それはいけない。もし本当にホテルの中に子どもがいるなら助け出さねばならない」
「そ、それはそうなんですが……」
警察官はもごもごと言葉を濁す。子どもを探したくとも、ホテルのどこに爆弾が仕掛けられているのかわからない中、うかつに近寄れないのだ。
伯爵はくるりと向きを変え、泣き叫ぶ母親のもとへとつかつかと歩み寄った。
夫人の前に進み出ると、
「私が探しに行きましょう。貴女はここでお待ちなさい」
と、安堵させるように語りかけた。その表情には、敵に囚われた味方の救出を申し出る騎士のような気高さがあった。
母親は、自分よりも身分が高いであろう身なりの良い紳士のあり得ない申し出に、ただただ驚いている。
「は、伯爵! いけません!」
一瞬呆けた警察官だったが、はっと意識を戻すと、驚きの声を上げた。
「なに、まだ爆破予告の時刻までまだ時間がある。すぐに戻るさ」
そう言って、伯爵は手にしていたステッキを警察官に渡す。
「すまないが、預かっておいてくれたまえ。子どもがけがをしていた場合、抱える可能性もあるだろうからな」
「しょ、正気ですか!?」
「ああ、聞いてしまったからには見捨てることはできない」
「あなたの身になにかあったら……。いえ、それならば私が中へ入ります」
ウィート伯爵にもしものことがあった場合の叱責を考えた警察官が、腹を括るように拳を胸に当てる。
伯爵は、駄々をこねる子どもをあやすようなやわらかい笑みを浮かべ、
「大丈夫だ。すぐに戻る」
やんわり押しとどめるように言った。
そして、そっと警察官の耳元に顔を近づけ、何事かささやく。
警査官は逡巡するような素ぶりを見せたあと、ウィート伯爵ともある人物が言うならば、これ以上の詮索は失礼にあたるだろうと考え直す。
「……わかりました。そういうことでしたら」
「すまないね」
伯爵はポンポンと警察官の肩を叩く。
そして涙で瞳を潤ませる母親に向き直り、深い同情を示すような慈愛に満ちた表情で、
「では、私が行ってこよう。ご子息の特徴を教えていただけるかな」
ウィート伯爵はひとり、ホテルの中へと足を踏み入れた。
豪奢な内装のホテルは、先ほどまで紳士淑女が語らう声であふれていたが、いまや別世界のようにシーンと静まり返っている。
ウィート伯爵は、出入り口すぐの階段を上り、朱色のやわらかな絨毯が敷かれた廊下を進みながらあたりをきょろきょろと見回す。
何度か右折左折を繰り返したところで、彫刻像の脇にうずくまる小さな影を見つけた。
「立てるか?」
近寄り声をかけると、涙に濡れた顔を上げた幼い男の子は驚きの表情で伯爵を見上げる。
子どもの手には汽車のおもちゃが握られていた。
体格、髪の毛や瞳の色などに目をやれば、先ほど母親から聞いた容姿で間違いなさそうだった。
どこかけがでもしているのかと思ったが、ただ迷子になって途方に暮れているだけのようだ。
「お母上が心配されていた。さあ、私と一緒にここから出るんだ」
そう言うとウィート伯爵は、こくりと小さくうなずく男の子の体に触れ、小さな体を背負った。
そしてくるりとむきを変え、歩幅を広げて、急いで出入り口を目指す。
階段を降りて、あとはもう数歩行けば出入り口だった。
そこまできたところで伯爵はぴたりと歩みを止め、そっと男の子を下ろした。
「ここを真っ直ぐ行けば、外に出れる。私はもう一度、中に戻らねばならない。ひとりで行けるか?」
と出入り口の方向を指差し、男の子に語りかける。
男の子は、伯爵の顔と出入り口を交互に見たあと、こくんとうなずいた。
「よし、いい子だ。さあ、行きなさい」
ウィート伯爵は、男の子の背中を押す。
男の子が歩き出すのを確認したあと、ウィート伯爵は急いでホテルの奥へと引き返しはじめた。
絨毯の上を小走りで進み、しばらく進んで目的の場所にたどり着く。
ホテルの二階奥にある、会員制のクラブラウンジだった。
タバコの紫煙が漂う中、紳士達は酒を交わし、ときに商談を行い、ときに雑談に興じる場所だ。
爆破予告で避難する直前まで、ウィート伯爵もこの場にいた。
大勢の紳士が集っていたことを示すように、細かな寄せ木細工が施されたテーブルの上には飲みかけのグラスや中途半端に火が消えたタバコが放置されたままだった。大慌てで避難した者が座っていたのか、ところどころ倒れた椅子があり、絨毯には転がったグラスから漏れたウィスキーが濃いしみを作っている。
ウィート伯爵は、ふむ、とあごに手を当て、ぐるりとラウンジの中を見渡す。
ラウンジの奥の一角に目を留めると、ニヤリと口端を持ち上げた。
その表情には、紳士の品格など欠片も見当たらなかった。
ウィート伯爵は、朱色の重厚なカーテンが引かれているところに目を留め、ガバリッとカーテンをめくり、中へと進み入る。
奥には古ぼけたドアが見える。
「ここか……」
ウィート伯爵は、目をすがめた。
『じつは先ほどクラブラウンジに大事なものを置いてきてしまったのだ。詳しくは話せないが、誰かの手に渡っては困るものだから、自分で取りに行きたい』
ホテルに入る前に、ウィート伯爵が警察官にささやいた言葉だった。
その言葉に嘘はない。
「ああ、そうさ、大事なものがある」
ククッと薄ら笑いを浮かべ、伯爵はつぶやいた。
「これから私のものになる、大事なものがね──」
草むらでこの話を立ち聞きしたとき、もとより警察に通報する気などさらさらなかった。
どうやってホテルの中へ入ろうかと考えていたのだ。
そこへ子どもを探す口実ができたのは、絶妙のタイミングだった。
あの母親と子どもには感謝せねば──。
伯爵はクツクツと笑いながら、真鍮のドアノブに手をかけ、体を滑り込ませると、ぴったりとドアを閉じた。
薄暗い部屋の中は、あまり使われていない部屋なのか、やけに埃っぽかった。
ゴホゴホッと軽く咳をしながら、見回すと、部屋の奥にピアノが見えた。
この中にあるアヘンを手に入れれば、莫大な金が手に入るだろう。これで借金を返済できる。
はははっと高笑いしそうになるのをこらえながら、ウィート伯爵は一歩、また一歩、部屋の中へ進み入る。
手探りでピアノのそばまでくると、
「暗いな。なにも見えん」
そうこぼすと、懐に手を入れ、取り出したマッチを擦った──。
エピローグ
サーっと風が吹き、四阿(ガゼボ)に庭園に咲くバラの甘いかおりが漂ってくる。
木々の揺れる葉音と小鳥達のさえずりが聞こえる中、ハイディはティーカップに手を伸ばし、ぬるくなった紅茶を口に含んだ。
マーベル夫人とヘイズも、そっとカップを傾ける。
鎮魂のような長い沈黙が続き、しばらくしてふっと息を吐いたのはハイディだった。
「最後の最後で、こうなることを選んだのは、あの男自身ですわ」
揺るぎない口調で言った。
「ええ、主はきちんと見ておられた。あの獣に制裁を加えてくださったのです」
マーベル夫人は、神に感謝を捧げるように両手を胸の前で組んだ。
「そのとおりです。助かる道もあった。しかしそれを選ばなかったのはあの男です」
同情の余地など一切ないとでもいうように、ヘイズが確固たる口調で言う。
ハイディは、ふたりの顔を交互に見て、深くうなずいた。
三人にとって伯爵は、愛する者を死に追いやった憎き相手であった。
けれど憎いからといって、その命を奪う権利が自分達にあるのだろうか。
じつのところ、迷っていた。
ハイディが復讐を決意したとき、ウィート伯爵を社交界から追放できれば十分だと思っていた。
伯爵としての威厳を失ったひとりの男にできることはたかが知れている。そうなれば、母のような犠牲者が出ることもないだろうと思った。
そして同時に、これまでの罪を認め、改心することがあるならば、その道は残しておいたほうがいいのではないか、そう考えていた。
マーベル夫人もハイディの意見に同調を示した。憎き相手であっても、人の生死を天秤にかける行為に抵抗があったのだろう。
しかしふたりの意見に反対したのが、ヘイズだった。彼は伯爵が改心することには懐疑的だった。
それもそのはず、家令だったヘイズの父がウィート伯爵を更生させるべく苦心していたにもかかわらず、その願いは受け入れられず、あろうことか罪をなすりつけたのだ。伯爵に少しでも良心のかけらでもあれば、とうの昔に改心しているはずだと、彼は譲らなかった。
三人は何度も話し合いを続け、そして出した結論こそ、神に判決を委ねるというものだった。
クラブラウンジの予備ピアノにアヘンが隠されているという嘘の話を、さりげなく伯爵の耳に入れる。強欲な伯爵は、きっと自らが取りに来るだろうと思われた。
しかし万が一来なかった場合は、これ以上の犠牲者を出さないよう社交界からの追放には追い込むが、それで手を引こうと三人は決めていた。
──しかし、伯爵は三人の予想を裏切ることなく、自ら死への階段を上ってきたのだった。
「それにしても、あっけないものですわね……」
マーベル夫人がぽつりと漏らす。その視線の先には、円卓の上に広げられた紙面がある。
ハイディとヘイズもマーベル夫人の視線を追い、そして同じことを思った。
大切な人を奪った憎きウィート伯爵を葬ったというのに、三人の胸に残っているのは虚しさだった。
あの男の所業を思えば、まったく罪悪感はない。
しかし思っていた以上の高揚感は微塵もなかった。
──亡くなった者は生き返らない。
ハイディは心の中で思った。
木の影から小鳥が飛び立った羽音がかすかに聞こえた。
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