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『推し、燃ゆ』を生活下手のアイドルヲタクが読んだら辛かった


今更ですが、『推し、燃ゆ』読了しました。

ネタバレありで感想を書いたので、まだ読んでない方はお気をつけください。



この本は一ヶ月くらい前に買ったものの、途中で読むのが苦しくなってしばらく放置していました。

というのも、主人公のあかりは私にとてもよく似ていて、彼女が周りから浴びせられる「アイドルばっかり追いかけてないで、現実見ろよ。もっとがんばれよ。」というような言葉の数々が、まるで私自身に言われてるようで心にグサグサと刺さって辛かったのです。

彼女自身に同族嫌悪的なものも感じていました。

過去の自分を思い出して辛くなったし、今の自分にもまだまだあかりと似ている部分がたくさんあって、この本を通して「客観的にお前を見るとこうだぞ?」と言われているような気分になりました。

あかりには共感できる。かなりできる。だからこそ、多分、私はあまり彼女が好きではない。でも、親友にはなれる気がします。助けてあげたいとも思います。


私には一時期、引きこもっている時期がありました。外に出るのが恐くて、なんなら家の中で動くことすらなぜか恐怖で、ずっと眠くて。。。

そんな私を外に引っ張り出してくれたのが、モーニング娘。、とりわけ鞘師里保でした。

9期オーディションの少し前に、YouTubeで見つけたいわゆるプラチナ期のモーニング娘。が気になっていたところに、9期のオーディションがはじまり、強烈に鞘師里保に惹かれました。

この子に会いたい。

その思いがつのり、電車にも乗れました。
一度出てしまえば、意外と平気でした。(家に戻ると、また一生外に出たくないという気持ちに戻りましたが。)

モーニング娘。に定期的に会いたいがために、仕事を見つけて、どうにかこうにか、今でも続けられています。

最初の方は、まさかにあかりと同じように「この時間の仕事で、生写真が○○枚分買える!」と、そんな事ばかり考えて時間を凌いでいた気がします。

とにかく、推しを心の支えになんとか毎日外に出て、仕事をしてました。

ただそのうち、推せば推すほど、お金と時間をかけるほど、ヲタ活以外の生活が疎かになり、バランスが崩れて苦しくなるというパラドックスが生じてきました。

潤いのある幸せな生活を送るためにアイドルを推していたはずなのに、アイドルを推してるがために私生活がガタガタになる。

「ヲタ卒します」宣言をする人をよくTwitterで見かけますが、きっとこの人たちもバランスを崩してしまった人たちなんだと思います。

あかりはおそらく私と同じく元々私生活がヘタクソで、そのやるせなさを埋めるために推しに依存していたのだと思います。自分のことが好きじゃなくて、自分を肯定できないから、せめて自分が好きなものを全力で肯定したい。

推しへの依存は、確かにあかりを助けていました。でも同時に追い詰めてもいたのかもしれません。それは、あかりの推しの真幸くんがスキャンダルを起こす前からジワジワと、そうだったのだと思います。

ヲタ活でも恋愛でも、何かひとつのものだけにグッとのめり込みすぎると、気付かないうちに足元が狭くなり、不安定になります。私やあかりのような、生活下手な人は特に。

元々生活が上手な人、つまりお金を稼ぐのが上手い人、人付き合いや世渡りが上手い人は、とても上手にヲタ活をされていると思います。

小説の中では、例えば虚無僧ちゃんがこのタイプです。推しにかなりの愛情とパッションを注ぎつつも、自分自身のファッションにも、爪の先まで気とお金をかけられている彼女は、間違いなく社会的に見てデキル女です。


あきらかに私よりもずっと沢山のお金と時間を推しに注ぎ込んでいるのに、それでいて私生活も同等に潤って見える人たちは、確かに存在します。

その人たちと同じくらい推しにお金と時間を使いたいと身の丈に合わないヲタ活をしてしまうと、そのうち疲れてしまうのです。

あかりの推しの真幸くんのような、何かあからさまなスキャンダルがなくとも、本当にフトした瞬間に「ヲタ卒しよ」となる気持ちはとてもよくわかります。でも、私は「ヲタ卒」という言葉が嫌いです。特に握手会等で「ヲタ卒するわ」と推しに宣言するような人は大嫌いです。

どうしてそんな、明らかに大好きな(大好きだった)推しを傷付けるようなことを平気で言えるのだろう?と思いますが、多分、彼らも私と同じ、不器用なのでしょう。

「黙って去るのは嫌だから」と言いますが、「ヲタ卒する」と言い放つのと、「仕事や学校が忙しくて中々会いには来れなくなってしまうけど、自宅から応援してるからね!」と伝えるのでは、全然違う印象になると思います。

推しに全力投球する「ヲタク」をやめても、せめてまったりと応援する「ファン」で居続けることは出来ないのかと、ヲタ卒ツイートを見る度に思います。


私は今、かなりゆるやかにヲタ活しています。
モーニング娘。は今でも好きですし、応援はしてますが、コンサートに行くのは年に1、2回になりました。

10年間、モーニング娘。を追いかけている中で、私の推しは途中で鞘師里保から飯窪春菜に移行しました。飯窪春菜の卒業と同時に、モーニング娘。本機とは一定の距離を取り、卒業後の飯窪春菜をまったりと応援している形です。

彼女の在籍中から、正直ガッツリ推し続けるのが時間的にも金銭的にも精神的にも辛くなってきて「太いヲタクじゃなくてごめんね。でも細くても長いヲタクでいたい。」と手紙で推しに伝えたことがあります。太いヲタクを見て羨ましく思うことはしょっちゅうありましたし、今でもありますが、私には、このくらいが合っていると思います。

この先も推しか私、どちらかが死ぬまで、まったりと推しを見ていたいです。
推しは私の止まり木です。

あかりのヲタ卒は、強制的なものでした。

推しが一般人になる。
推しが、自分の知らない場所で、知らない誰かと幸せになる。
自分だけが取り残される。

ある意味、推しが死ぬより辛いんじゃないかとすら思います。

私の推しは、グループを卒業した後も芸能界に残ってくれました。そのことに対する感謝の気持ちが、改めてブワッと湧いてきました。

あかりは推しを失った後、死ぬわけでも立ち直るわけでも、新しい推しを見つけるでもなく、ただ半引きこもり状態のまま。そこで話が終わってしまったので、正直モヤモヤします。

ただ、最後の文で、あまりポジティブではないものの「生きよう」と決断しているあかり。

私に似すぎているあかり。この先どうにか、少しでもいいから自分自身を肯定出来るようになってほしい。そう願ってしまいます。


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