見出し画像

ラーンネット・エッジ

 37年間ずっと公立学校に勤めてきて、定年を目前にしてあらためて「学校とは何か」という命題について自問自答する機会が増えました。この先もずっと考え続けることになりそうですが、現時点で心の中にあるのは「学校は『学ぶところ』ではなく『学べるところ』であってほしい」という消極的な願いです。
 神戸にある『ラーンネット・エッジ』を見学させていただきました。「より自分らしく生きられる人が育つ場」として設立された『ラーンネット・エッジ』。それぞれ地元の公立学校に在籍しながらここに通う子どもたちの豊かな表情に学校の可能性を感じることができました。
 20年ほど前に生徒指導の担当をしていた頃、教室に入りづらい子どもたちの居場所として、いわゆる「校内適応指導教室」を立ち上げた経験がありますが、当時はまさにその名前のように、社会に適応できるように指導する「やどり木」的な存在としてその場をとらえていました。『ラーンネット・エッジ』は「適応指導教室」なんていう言葉がいかに陳腐かを思い知らされます。決して「社会に適応できない子どもを適応できるように指導する場」ではないのです。一言で言うならここは「学べる場」なのです。
 8時45分から各自で自習をはじめ、9時半からは各分野の専門家を招聘して80分の学習時間が設定されています。私が体験させていただいたのは「アート」という時間で、株式会社フェリッシモの 木野内 美里さん が講師でした。80分の枠でしたが、実際には約2時間、8名の異年齢の子どもたちと同じ空間で各自の作品づくりに熱中しました。先生の言葉を借りれば「色とお話する時間」がたっぷりと設定されていたのですが、そのとてつもなく有意義な時間は私にも経験がありました。
 

これは恥ずかしながら私の作品ですが、子どもたちの作品には完全に脱帽でした。

 私は、数年前に学校に勤務しながら大学院に通ったことがありますが、その時の学びととてもよく似ている気がしたのです。直接生活の何かに結びつくとか、目的の達成に直接必要な学びというわけではなく、学んでいることで自分の時間と空間が拡がっていく感じです。この感覚をそれぞれの子どもたちが感じているのだろうと思うと、これこそまさに「個別最適な学び」だと思うのでした。彼らはきっとここが「学べるところ」だと感じているのです。
 子どもたちの在籍校の管理職の先生や生徒指導の先生が見学に来られることがあるそうです。ここでの活動を在籍校での出席日数に認定するための義務感で来られるのかどうかはわかりませんが、数分間、活動の様子を見て「ここでは元気そうですね。」という感想を述べられて帰って行かれるそうです。在籍校で元気がなかった原因が、その子どもの社会への適応能力が不足していたからだととらえるのか、学校がその子の「学べる場」となっていなかったからだととらえるか。私自身、恥ずかしながら長い間、前者だったような気がしてなりません。
 「アート」の時間が終わり、子どもたちが卒業式や修学旅行についての話し合いを始めました。その間にスタッフの方にとても愚直な質問をさせていただきました。
 「公立でこういう学校をつくることは可能だと思いますか?」
 丁寧にこんな回答をいただきました。
 「私たちは基本的に自由です。誰かから評価されてそれを気にするわけではなく、何か教育課程に縛りがあるわけでもありません。自由です。子どもたちの様子を見て、話し合って創り上げているのです。だから公立学校でも、どの先生も自由だということを感じることができれば可能なんだと思います。」
 苫野 一徳さん の「自由の相互承認」という言葉が頭をよぎりました。もっと自由な発想で学校を「学べる場」にしたいと強く感じた一日でした。

大寒波一過。六甲山を眺めながら心は温かい気持ちで帰路につきました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?