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【リブリオエッセイ】”天性”の答え

▼2024年6月 ふみサロ課題本

「ハイパフォーマー思考」増子裕介、増村岳史 
 ディスカヴァー・トウェンティーワン

▼本文

 ”天性”の答え

 自身がプレイヤーとして最大限に楽しめる場所は何処か? 今でこそ私は物書きを楽しみながら生きているが、そもそも私は文学部卒では無いし、職業も流通業界の店長のキャリアが圧倒的に長い。40代半ば過ぎまでは音楽業界、出版業界とも全く無縁であった。しかし、離婚を機に決意を固めて行動を開始して以降は、小さなご縁を幾つか頂き、細々と現在に至っている。

 私が文章執筆サロン「ふみサロ」に参加したタイミングは第一詩集を出版してから約3ヶ月後ぐらいだったので、「ふみサロ」内では最初から自分の事を「詩人」だと自称していたが、そこから更に2~3年ぐらい前まで遡ると、その頃はまだ自分で自分の事を詩人だと名乗ってしまって差し支えが無いのかどうかについては、まだまだ心の中では葛藤があった。それでも何故、最終的に「詩人」だと名乗る事にしたのか?と言うと、それは「詩(のような文章)」が、自分自身にとっては一番ラクで書きやすい文芸ジャンルだったから自然にそのような流れになってしまったとしか言いようがない。

 もともと詩人になりたいと思ったことなど一度も無かったので、詩が書けるようになる為の修行等した事は無いのだが、書かずにはいられないような精神状態になった時に書き始めると、私の場合は自然に詩を書いてしまう。なので、私にとっては何の苦労も無く、一番自然に書けてしまう文芸ジャンルが、たまたま「詩」だったというだけだ。それと比較すると、ビジネス系の文章やエッセイは、詩とは全く別物だと思う。かなり綿密に構成を計算しながら書いているつもりだが、それでも、後からどんどんアイデアが更新されていってしまう為、推敲すると大抵の場合は、何度もあちこち書き直してしまう。ところが、詩の場合は最初から完全な完成形で書ける事が多い為、書き終わってから推敲したりするようなケースは非常に稀なのである。

 努力しなくても書けるジャンルが一つあると言うのは何かしら生まれ持った”天性”が自分にあると考えるのが自然なのだろう。……であるならば、それを活かして自身の才能を伸ばすという事にもチャレンジしてみたい。そこから私は、ふみサロ入会以降、文章術の研究や新しい表現の実験を続けている。文芸作家として普通に成功を目指す為に取るべき戦略は、普通は、俳句だけに絞ったり、短歌だけに絞ったり、小説だけに絞ったり、ジャンルを絞る事なんだろうなとは分かっている。しかし、私は敢えて、ジャンルを絞る戦略は取らない。普通に成功したいとは思っていないからだ。それよりも複数のジャンルを並行して書き続ける修行を積み重ねる事により、そこから生まれる相乗効果で、自分でも気づかなかった新しい文章、表現が書けるようになるかもしれないという、自分自身の未来に賭けているからである。身の回りにいる友達とは全く違う事をやりたい。私の心の中に潜む少年性は、私が小学生の頃から今でも全く変わっていない。

▼今回の作品の執筆意図

 今回の課題本は、とっても面白かった。大谷選手のエピソードも面白かったけど、同郷で同じ海部郡出身のジャンボ尾崎が、徳島県立海南高校でエースとして甲子園で優勝投手になり、鳴り物入りでプロ野球に入団したものの、あっさりプロ野球に見切りを付け、ゴルフに転向し成功したエピソードが、ものすごく納得できた。ジャンボ尾崎の存在自体は、とても有名なので、子供の頃から知ってはいたが、どうしてプロ野球からゴルフに転向したのか?の理由については、この本を読むまでは全く知らなかったので、とても参考になった。「ハイパフォーマー思考」については、正直、読み終わった後、自分の事について書いてある本か?と思うぐらい共感した。(私の場合は、ハイパフォーマーというより、世間一般の基準では完全に器用貧乏なのだろうが・・・)
 私は、会社員時代、流通業界の店舗経営指導員や新規事業部、バイヤー、店長職等で、地区トップに複数回なったり、経営不振店の立て直しに成功した経験がある為、過去には一時期、それらの経験をネタにしてセミナーを開催していた。しかし、ある時に、私にとっての成功体験とは、私というキャラクターの人間が、私なりの行動基準を持って行動したからこそ、たまたま上手く行った経験の蓄積であり、その体験を例え本にして後世に残したとしても、読者が真似する事ができない、結果的に意味のない本になってしまうのではないか?と考えるようになった。そもそも読者が真似をして、経営に活かす事ができるような良書は、もう世の中に出回っているので、わざわざ自分がビジネス書の著者を目指す必然性は、もはやないのでは?と考えるようになったのだ。なので、セミナーをやっていた頃は、店長の仕事術やマネージメント術のブログを書いていたのだが、今では経営関連の記事を自分で書いたりするのは一切、辞めてしまいました。今は文芸や歴史関係の本を読んだり書いたりする方が圧倒的に面白いと思うように変わったので、好きだった本のジャンルについては、小・中学生の頃に好きだった本の傾向と同じ分野に、戻っていったような気がします。

▼エッセイの流れ

①「起・興味」
・自身がプレイヤーとして最大限に楽しめる場所は、「モノ書き」としての場所である。文章を、”作る”、”創造する”のが楽しい。ふみサロに出す文章を考えるのが楽しい。結果的に「ふみサロ」へのエッセイ提出はずっと続いているし、入会以来、エッセイを出さなかった月は無く、今のところ、連続提出を続ける事が出来ている。

②「承・納得」
・何故?自分の事を詩人だと名乗るようになったのか?
入会当初、まだ渋谷でリアル開催だった「ふみサロ」の合評会終了後の飲み会で、後藤先生から「詩はスピリチュアルだと思う」という、ご意見をいただいた。その後、自分なりに試行錯誤を重ねていった結果、最終的に私は、その人が詩を書けるか?どうか?は、憑いている守護霊が関係していると、思うようになっていった。前世で詩を書くのが上手だった霊が輪廻転生して憑いている場合は、スイッチがカチッと入った瞬間に、流れるように詩は書けるように出来ている。しかし、この現象は、誰にでも当てはまらない。詩の守護霊が憑いてない人の場合は、一生、一遍の詩を書く事も無く、人生を終えるのだろうと思う。しかし、同時に私は、詩は、万人が書く必要はないものだとも思っている。書く人もいれば、書かない人もいる。それでいいのだと、私は思う。
(※詩がスピリチュアルな理由・・・お経、祝詞、大祓、君が代、和歌等……これらの言葉には言霊的要素、呪術的要素が含まれていて、普通の話し言葉から詩、詞に昇華した時点で、言霊としての次元上昇が起きていると考えるようになった為)

③「転・共感」
・天性の才能とは、それほど努力をしなくても、人とは違った成果が挙げられる能力の事を言う。私は、詩を書くのが難しいと思いながら書いた事はほとんどない。(歌詞の場合は、ちょっと勝手が違い、先に曲が出来てるものに歌詞をつけるのは難易度が高いと思っている)ただ他人が書いた詩を読んだり、歌詞の内容について考える、味わうのは好きなので、他人の文章を、消化、吸収、加工してアウトプットするのは面白いし、その行為をする事自体は、楽しいんだと思います。(何故なら、文章を考えている時には、時間を忘れるぐらい没頭する事が多いので・・・)

④「結・信頼」
・ふみサロに入会してから4回目の課題提出で、私はエッセイを提出せずに、詩を提出した。何故、詩を提出したかと言えば、エッセイを書こうと思っていたが、内容を何にするかが決められず、締め切りの24時まで、あと3時間となった時に、詩の方が早く書けると思ったので、詩を書いて出すことに決めた。結論から言うと、ざっくりとした内容は1時間ぐらいで全体が書けたが、ふみサロの課題として提出するために作成した為、この時ばかりは、普段とは違って推敲し、気になる部分に関しては修正して、何度も何度も読み返して、最終的に提出内容を確定させた。それでも、その時の所要時間は2時間ぐらいで、締め切りの24時まではあと1時間ぐらいは残っていた事を記憶している。それとは別に、課題で短歌を提出した時は、課題本を読み終わった時点で、もうこれは短歌で出してやろうと狙っていたので、事前に段取りだけ決めて書き始めたが、8首の短歌を考えるのにかかった所要時間は、その時は、だいたい1時間ぐらいで全部出来た。集中してゾーンの状態に没入する事が出来た場合は、比較的、作品が仕上がるのが早いというのを実感している。
・現在、私は、俳句、短歌、エッセイ、自由詩、歌詞を書いている。小説も書きたい気持ちはあるのだが、たぶん小説を書き始めてしまうと、集中しすぎてエッセイを書くのが面倒になってしまいそうになってしまうのが容易に想像できてしまう為、今のところ、小説に手を付けるのは止めている。


ただいま、新刊がKindleにて発売中です!

Kindle「うみにゆきたい/縄文の子」
販売開始しました!


(パソコンでも読めますが、スマホ推奨です)    

Kindleunlimited 対象商品  

ダウンロードのリンクは以下

https://www.amazon.co.jp/dp/B0D5MD8CTR

Q:「うみにゆきたい/縄文の子」とは、どんな本か?

サブタイトルは「阿波詩歌文芸図鑑」となっており、あわや詩朋(横須賀しおん)がこれまでに書いてきた詩、エッセイ、俳句、短歌、歌詞とともに、縄文の故郷、美波町を案内する書籍となっております。

(作品一部紹介)

「わたしのこころのなかのちいさなかみさま」

ちっちゃなころから

ひとりじゃないの

ひとりぼっちでも

ひとりじゃないの

わたしのこころのなかの

ちいさなかみさま

いつでもそばにいるの

いつでもおはなししているの

こまったときに

たすけてくれるのは

いつでもちいさな

かみさまだった

おかあさま

わたしはもうだいじょうぶです

おとうさま

わたしはもうだいじょうぶです

おかあさまみたいになんかならない

おとうさまみたいになんかならない

わたしはわたしのみちをいく

おかあさまわたしはもう

ひとりでもあるいていけるから

わたしのこころのなかの

ちいさなかみさま

いつでもそばにいるの

いつでもおはなししているの

こまったときに

たすけてくれるのは

いつでもちいさな

かみさまだった

わたしがみつめているのはせかい

わたしがみつめているのはうちゅう

くだらないおやのあらそいごとになんか

もうわたしをまきこまないでください

ちっちゃなころから

かみさまがいる

ひとりぼっちでも

かみさまがいる

わたしのこころのなかの

おおきなかみさま

いつでもそばにいるの

いつでもおはなししているの

おかあさましんぱいいらない

おとうさましんぱいいらない

わたしはわたしのみちをいく

わたしがみつめているのはせかい

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